~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (五)
この間、項梁の軍は、むろん不戦状態だったわけではなかた。
各方面軍は前線にあって駈けまわっている。たとえば項羽とその軍などは、休む間もないほどであった。
項羽軍は本営からもっとも西方に離れた所にいる。前記官倉庫のひとつではないにしても、その次位に位置するほどの大きな穀倉を持つ襄城じょうじょう(河南省)という県城を、火の出るような勢いで攻め続けていた。目的は、露骨に食糧を奪うことしかない。秦軍の一支隊が襄城の城壁をよく守り、容易に陥ちなかった。
ところが項梁が薛への移動中、ついに項羽が襄城を陥した、という知らせを受けた。
「さすが、わがおい・・だ」
項梁は大きく一声をあげて笑ったが、しぐ笑いをおさめ、真顔になった。落城後に項羽ややった秦の降伏兵の始末が、すさまじすぎたのである。何千という降伏兵を縛り、城外に大きなあなを掘ってことごとくあなうめにして殺してしまったという。あなという名詞がイキウメニスルという動詞に使われるほど、この大量殺人法がやがて項羽によって、二度、三度と行われるのだが、しかしこの方法は項羽の独創ではなかった。
阬がいつごろが始まりであるのか、よくわからない。上代は殉死者を生きながらに阬にしたということはあったが、刑罰としてこれをやったのは、少なくとも記録の上では始皇帝が最初であった。
儒教の学者四百六十余人を咸陽かんようの郊外に連れて行って、阬にした。その地(今の陝西せんせい臨潼りんとう県の西南)は唐のころから阬儒谷こうじゅこくと呼ばれるようになっている。
項羽がやった李由は、始皇帝のように刑罰ではなかった。
生かしておけばせっかく襄城においてた穀物を彼らも食う、と言うだけだが、彼にとっての理由であった。
ただし、項羽は、一個に人間としては陽気で明るい男だった。やがて彼がその食糧を運んで項梁の許に帰って来たときも、むちを空中に鳴らして、遠い距離を隔てて立っているおじ・・の項梁に対し、自分の戦勝の喜びをあらわした。項梁は、戦勝軍を城門の外に出迎えた。部隊の背後に、数理ほどに続くかと思われるほどに食糧を積んだ荷車の列が遠霞につづいていた。項梁はその一事だけで満足せざるを得なかった。
項羽は、戦勝の報告をした。そのあと、
「おじよ、ごくつぶしどもは、みな阬にしました」
と、こともなげに言ったが、項梁はうなずいただけで、批評を控えた。うかつに批評すれば項羽は怒りだすかも知れず、あるいは以後おじのために働かなくなるかも知れず、最悪の場合──かんがえるだに恐ろしいことであったが──脱走して独立軍を作るかも知れなかった。

項梁は軍を率いて、せつへ向かっている。
向かうにあたって、諸方の流民軍に檄を飛ばし、
「薛において大会同をしよう」
と、触れていた。この檄は、大きなききめがあった。陳勝を頂点としてまとまっていた諸方の流民軍は、陳勝が大敗して死んだあと、かなめを失ってしまったうえに、ほうぼうで各個に秦軍に破られ、各地で窮しきていた。そういう時機だっただけに、項梁の誘いにとびつく小首領たちが多かった。実際面においては、小首領たちはその配下の流民を食わせえることが不可能になっており、とりあえず項梁に身を寄せて配下もろとも食を得ようという算段もはたらいていた。居巣きょそう(安微笑)の人、范増はんぞうと言う七十翁がやってきて項梁に面会したというのは、項梁とその軍が薛に近づきつつあったころである。范増が、
── 三戸トいえどモ、秦ヲ亡ボスモノハ、必ズ楚ナラン。
というかつての楚の卜占ぼくせん家南公の予言をひき、項梁にすすめて亡楚の王の遺孫をさがしてそれをほうじよ、と献策したのは、この時である。王をたてて、項梁がそれを奉ずれば楚の遺民はあらそって貴軍の傘下に入る。陳勝はそれをせず、みずから王になったために人心が離れた、あなたはぜひそうなされよ、と言ったことに、項梁は、魅入みいられた者が前はよろけてゆくように范増の言葉に従った。
入説ひゅうぜいというのは単に論理だけではないのであろう。

2020/02/01

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