~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (六)
范増という老人は、天下の情勢に通じ、兵理にあかるく、その上、秦軍の現状をよく知り、さらには項梁の軍が流民軍第一等の兵威を持つとはいえ、いくつかの弱点をひきずっていつことをよく知っていた。
その上、ことばの一つ一つが光っていた。
こういう男にくどかれたのが項梁の運の悪さと言ってよく、聴きおわって、
(ああ、もっともなことだ)
と、心から思ってしまった。
(その程度のことで秦軍に倍する兵が集められるなら、おやすいことだ)
と、思った。王といってもどうせ飾り物で、実際には自分が人を動かし、命じ、すべてを切り盛りするのである。
せつという城市まちは、古代からある。
周代、国々が都市国家の状態であったころには薛という名称の一国をなしていた。この一事でもその後背地がいかに豊穣であったかが想像できる。時代が下るにつれて豊かさを増した。戦国期は一般に農業生産が大いに上がったころだが、薛の豊かさも飛躍した。
戦国期には、薛はせい版図はんとのなかにあった。戦国の末期、斉王が有名な王族孟嘗君もうしょうくんをこの薛にほうじた。このことで、
「薛は孟嘗君によっていよいよ知られるようになった」
と、いわれた。
孟嘗君が、四方の賢者や技芸ある者と交わりを結び、彼らを薛にんで食客としたことは、この項梁の時代、ほんの最近のことのように語り伝えられている。
かつての中国大陸には、ひとびとは氏族のなかでかずのこ・・・・の無数の卵のようにかたまって暮らしているのみで個人が容易にき出されて来ないが、戦後を経て社会が変化し、個人が個人の技芸や志を持って世間を歩くようになった。孟嘗君は、いぬや鶏の鳴き声が出来るという程度の人間まで賓師ひんしとして居らしめ、彼らに対してへりくだって礼をつくしたが、その人数は──ちょっと信じ難いが──六万人だったと言われる。六万人の無為徒食の徒を相当な礼遇を以て養っておくというのは、薛という城市の後背地がいかmに高い農業生産力を持っていたかとい傍証のひとつになるかも知れない。
さらにいえば、食客だけで六万人いるということでも、薛のにぎわいがどういうものであったか、十分に察することが出来る。
秦は、薛県を設け、この薛を県城とした。ついでながらら、はい劉邦りゅうほう亭長ていちょうという微官ながらもかんむりをかぶる身分になった時、人をこの薛にやって竹の皮を買わせ、それを材料にして独特の冠をつくったということは、ふでにふれた。ただし、薛はそういう土地でありながら、町といい、村里といい、人気にんきがひどく悪く、がら・・が悪かったといわれる。孟嘗君は賢者も招いたが、ただの無頼漢も招き、また諸国のおたずね者も頼って来ればこれをかくまった。そういう兇悍きょうかんの徒が家をなし、子孫を増やしたために町の風儀が悪くなったというのである。
薛の町の運河は水がいつも淀み、黒い泡が湧くように浮かんでは消えた。
項梁は、この町の活気が好きであった。
この町に入城した時、彼は早速町でもっとも大きな殿舎──県令が住んでいた家屋──に入ろうとしたが、謀臣の范増がとめた。
「やがて、王が来られますから」
と、いう。項梁はやむなく小さな家屋を接収し、ここを自分の指揮所とした。挙兵以来、王侯のようにふるまってきたことを思うと、なにやら情けない気がせぬでもなかった。
2020/02/01
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