~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (七)
王孫がいた。 名を、しんという。
最後の楚王であるかい王の孫にあたるが、楚が亡びしんが興ってからは人に養われて民間を漂泊し、この時期には農家の使用人となって羊を飼う仕事をしていた。
心は、二十代半ばである。牧野をさまよって、乾燥した羊の糞を拾い集めていた時、項梁と范増の使いが来て、
「薛へ行き、楚の王位についていただきたい」
と言った時ばかりは、驚いた。心はこの時、粗末な労働着を身につけ、まわりには羊が群れていた。
彼はむろん王族のころの記憶などは無かった。人に使われて辛酸をめているだけに、ただの坊やではなかった。鼻梁が異様にたかいほかは、目も口もとも可愛い。しかし表情を消してひとの話にじっと聞き入っている顔つきは、どす・・がきいていた。
仔犬が、しきりに鳴いていた。やがて心のそばに来て、たわむれにくつ・・を噛んだ時、心はそれを蹴った。
「やってみるか」
と、つぶやいた時はすでにしたたかな思案が終わっていた。
不安はある。利用された後、不用になれば殺されるのではないかということであったが、それは自分さえしっかりしておてばまぬがれるだろう、と思った。このあたりは、若かった。
かんじんな事は、項梁の人柄である。
「学問のある人でございます」
使者は言った。項梁どのは野望のうまれつきすくないたちで、決して無道のことをしません、これは項梁に対する定評というべきものでございます、と使者はいうのである。すこしめすぎでなくもないが、以上の言葉を裏から読めば、むしろ天下を争う人間としての性格の弱点を列挙したというべきものかも知れなかった。
「わかった」
しんは、言った。
「王になってもいいが、条件がある」
王権も王命も絶対のもので、臣下に左右されない、項梁以下はそれを認めるか、と言った。使者は、そのことを項梁に伝えた。
「当然のことだ」
項梁は、どこか、憮然ぶぜんとした気持ちを抑えつつ、おごそかにうなずいた。
ともかくも項梁は心という羊飼いを王として迎える行列を城外に用意した。
しんは、迎えの者にともなわれてせつにむかった。やがて城外で衣服をあらため、車騎を従えて薛の城門に向かって進んだ。その時の心の容儀には、もはや羊飼いの面影が片鱗もない。このあたり、凡庸な男ではなかった。
かたわらに、しんを守るようにして宋義そうぎという初老の男がついていた。
「宋義」
心は、途中、行列を止め、宋義を呼んだ。宋義は車から降り、王のそばに立った。
「王に見えるか」
宋義は拱手きょうしゅし、涙してしんを仰いだ。見える・・・どころではございませぬ、王そのものでございます。宋義はこころからそのように言上した。車騎は、ふたたび動き出した。
2020/02/03
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