~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (八)
じつをいえば、項梁こうりょうが檄を飛ばしたとき、荒くれた流民の首領だけでなく、多くの亡楚の遺臣が、なにか官職でももらえるかと思い、項梁や范増をたよってやって来た。どの男もいくさの使いものにならず、いわばむだ飯食いに過ぎなかったが、しかし亡楚の貴族の出である項氏(項梁・項羽など)の装飾にはなった。彼らは遺臣とはいえ、項氏より下位だった者たちで、かつての楚の時代のように項氏を尊んで礼を厚くしてくれたのである。
ところが、宋義そうぎだけは異なる。
「楚の宋家」
といえば、かつて戦国の頃、人々からうたうように言われた代表的な貴族の家であった。
代々令尹れいいんに任ぜられた。令尹とは楚の独特の官名である。同時に最高の上卿であることをあらわすこの官命ははるかに後世の日本の平安朝における関白太政大臣に相当する。宋義はその家に生れ、父のあとを襲って令尹を継ごうとしたあたりで楚が亡んだ。この男が、一族を引き連れ、しかも「王」を奉じてせつにやって来たのである。この時ばかりは、項梁は驚くよりも、うんざりした。
(そういう男が、まだ生きていたのか)
項氏も楚の貴族であるとはいえ、家格は宋氏にとても及ばないのである。
さらに困ったことに、宋義は物事の出来る男で、亡楚の官制に通じているだけでなく、政治もいくさもほどほどには── もしくはそれ以上に ──やれそうな男だという印象を項梁自身が受けてしまった事であった。
(こいつはどうも、おれがせっかく張った楚の店を明け渡さなければならぬかもしれぬ)
項梁は欲深でないだけに、ついそう思ったりした。
もっとも宋義は楚が亡んでみずからも窮迫してからは、よほど世馴よなれてしまっているらしい。項梁に対し、如才なく、なんといっても楚の勢いをここまで盛り上げなされたのは項梁どのでござる、手前など項梁どのの馭者ぎょしゃの助手にでもなり、馬のはえを追う役にでもおつけくだされば有難いと思わねばなりませぬ、と項梁が恐縮するほど慇懃に初対面のあいさつを述べた。
以上の宋義のことばのなかで、項梁が気になるのは、
「楚」
という言葉をしきりに使うことである。
── 楚の勢いをここまで盛り上げなされたのは、項梁どののお力でござる。
というのは、修辞としてもっともなことで少しもおかしくないのだが、宋義の口から、
チュウ
という音が出る、そのつど楚が項梁の頭上から飛んで、しんと宋義だけの上にかがやいているようにも感じられる。論理的にも、「楚」といえば項梁はその一員にすぎなくなる。宋義は当然令尹でありうる、という計算が、宋義に本能のように働いていたに違いない。
ばかなことになった。
薛の町は、亡楚の貴族だらけになった。
項梁が、大兵を集めたいばかりに亡楚の遺臣や亡楚を慕う者に集まれ、とか、わが方こそ楚の正統である、その証拠にいずれ楚王を奉戴ほうたいする、といったようなげきを飛ばし過ぎた。それこそ項羽こうう襄城じょうじょうの捕虜に対して言った「ごくつぶし」のような旧貴族どもがぞろぞろと地下からい出て来て、薛の大路や小路をうゆるゆると歩いている。
その連中は何の能もなく、何の役にも立たなかったが、身分意識にだけは感覚が鋭敏で、かつての令尹の宋義の前に出ると、昔のように膝行して彼の前に進み、あつく拝礼した。自然、宋義は、流亡貴族どもの旗頭のようになった。
(おれは、置き去りか)
と、項梁は思わぬでもない。項梁の建てた楚軍はさすがに項梁をもって最高の首領と仰いでいたが、このみやびた穀つぶしどもは、項梁をどことなく次席とみていた。項梁にしてみれば、大いに軍威を張り、ただ軍事力の上だけで、
「楚」
という多分に空中楼閣にすぎない国名を建てているのだが、貴族たちの思考法としては、物事の本質をそういうぐあいには見ないようであった。楚の貴族がいつからこそ流民がそれを尊び、喜んでせ参じ、刀槍をって死を顧みないのだというふうに考えていた。
(世に貴族ほどいやなものがあろうか)
項梁は、思った。
項梁の奇妙なところは、貴族の出のくせに、い立ってほどなく放浪をかさねるうちに貴族意識がすり減ってしまったことである。彼は挙兵の時に多少は自分の家格を利用したが、元来、そういう意識で物事を考えたりはしなかった。むしろ、秦の暴政をののしりながらも、
(秦は野蛮だが、官制はすぐれている)
と思わざるを得ない。秦に貴族はいない。
能力のある者を文武の要職に就かせ、法によって組織を動かし、人民を拘束している。戦国の末期には各国とも能力主義をとったが、結局は不徹底で、貴族国家群は次々に秦に攻めつぶされた。
項梁は秦以前と秦以後をつぶさに見て来ているために、貴族というものは何かという事をよく知っている。さらには秦を滅ぼした後の新国家は旧楚の体制のなるごとの復活ではなく、少量もしくは多量に秦の法制を取り入れざるを得ないだろうとまで考えていた。
能力主義の秦を倒すのに古い貴族の力を利用せざるを得ないというのは、項梁も内心、やや滑稽に感じざるを得なかったが、しかし眼前の急務は流民を大量に集める事であった。さらにはその士気を滅秦の戦士としてふるい立たせるには、范増のいうように楚の亡霊をよみがえらせることであり、楚帝国の成立を目指すほかなかった。
2020/02/03
Next