~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (十)
たれがどういう官につくかは、范増が立案した。范増は、小さなナイフで竹簡ちくかんを削っては、墨で書き入れ、項梁に見せた。それによると、宋義が、令尹れいいんなのである。項梁はその竹簡を見て、驚くよりも笑ってしまった。
「これは、動かせませぬ。宋義そのものがもともと令尹なのですから」
范増は、星座が人事では動かせないように、こういう性質のものは作為しては王の権威がなくなるのだ、と言った。いったん王をよんだ以上は、それにともなってこれを認めねばならない。
「・・・そういうものか」
「そういうものでござる」
しかし権力は持たせぬようにしましょう、と范増は言い添えた。令尹はあくまでも文官の最高官であって、軍隊は率いない。軍隊と無縁にしておけば力は決して持たない、と范増は言う。
上柱国じょうちゅうこくはたれにするかに、困っています」
上柱国よいうのは、いままで項梁が称してきた官名である。しかしあらためてほんもの・・・・の王から任命されるとなると宋義そうぎよりも下になってしまう。
「おれは、いやだよ」
と、項梁は、范増に対してめずらしく意志をはっきりさせた。
「わかっております」
范増は静かに言った。上柱国も文官なのである。それにこの上柱国は亡楚における実力登用制の最高官で、出身身分はあまり問われず、ふつう下級貴族の出身者がなる。平民出身の上柱国さえいたことがあるらしい。
陳嬰ちんえいは、平民の出でございます」
「そのとおりだ」
「彼ならば上柱国にちょうどよいかと思いますが」
范増が言った。
項梁は、吹きだした。
(なるほど、范増が考えていることはそういうことなのか)
項梁は、しだいに范増の頭の中の風景がわかってきた。
東陽県の県吏だった陳嬰ハ、かつて県の少年たちに押しあげられて一軍の頭目になったものの統御する自信がなく、ともかくも大勢力に寄生しようと思って項梁の軍にいち早く参加した。陳嬰は東陽県の名吏だったとはいえ世間では無名の男である。戦争には弱い。その程度の陳嬰を上柱国にするという。令尹といい、上柱国といい、名は大層なものだが范増のイメージにあってはその程度に軽いものに過ぎないことを知って、項梁は安堵し、笑いだしたのである。
ほかに、范増はさまざまな人間をしかるべき官に付けた。やがてこの男はどうしますか、と項梁に示した竹簡に、
劉邦りゅうほう
とあった。はいのぬし。その郷党から沛公と呼ばれている人物である。
2020/02/05
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