~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (十一)
「劉邦・・・・」
劉邦は思い出せない。
「お忘れになりましたか」
この男はつ数日前にこのせつにやって来て、項梁の軍── 楚軍 ── に参加するから兵を拝借したいとせがんでいる。
(ああ、あの背の高い男。・・・)
項梁は、うらやましいような劉邦の美髯びせんと堂々たる体躯を思い浮かべた。
ただ、体が長いわりには、上と下とがどこかちぐはぐで、風が吹けば倒れそうな感じでもあった。
項梁が聞いたところでは、陳勝の決起に刺激されて沛の町を乗っ取り、四方に兵を出しはじめたが、やがて泗水しすい郡のしゆ(行政長官)が秦の地方軍を組織して防戦に出、次いで攻勢に出るようになって、しばしば敗れ、ときに勝った。
劉邦が初めて勝つのは、その故郷の県城であるほうにこもったときである。これを泗水郡のかん(郡の司法長官)が自ら兵を率いて囲んだが、彼はよく突出してこれを破り、勢いの乗ってつづいて郡のしゆを追い、これを捕えて殺し、さらに兵に食を与えるために各地を転々とした。とくに亢父こうほ方与ほうよを囲んだが、陥ちず、城外に布陣することが長かった。亢父や方与などの郊外では食も少なく、人も集まらず、うだるがあがらなかった。そのうち、仲間の雍歯ようしという男に預けておいた豊を、その裏切りによって、られてしまったのである。雍歯の背後にはがいる。魏も、戦国期に秦に滅ぼされた国の一つであったが、今は楚と同様、自立して魏を称していた。この魏が、豊の城を守る雍歯に応援しているために、劉邦はこれをいくら包囲して矢を射ちこんでもこの故郷の城が抜けなかった。劉邦は、本拠を失ってしまった。
そのうち劉邦は陣中で風邪をひき、重くなり、沛の町に帰って寝込んだ。劉邦も自分の運のなさにうんざりしたが、それ以上に情けなかったのは、古い仲間の雍歯に豊を奪られたことであった。劉邦は無名のころ、沛の町を遊び場として多くの知人を作ったが、厳密には故郷ではなく、故郷というのはあくまでも沛の隣の豊である。それを他人に取られ、しかも郷党の子弟がその他人を擁して劉邦に手向かっているなど一派の頭目としてこれほどあわれなことはない。
ここでついでながら雍歯に触れる。沛の人である。そのさきは魏に縁があったらしく、魏の将の周市しゆうしという者が「劉邦を裏切って魏に味方するなら魏の侯に封じてやる」と申し入れたために簡単に寝返った。雍歯は、もとは劉邦と泥棒仲間で、大小のことによく気がつき、度量も大きく、役に立つ男であったが、かんじんなことに彼は劉邦が馬鹿に見えて仕方がなかった。ついに自立した。
(豊の人間は許せない。まして雍歯はその肉をくらってもあきたらない)
と劉邦は病床で歯がみする思いでいた。といっても、豊がそれほど大きな城市まちだったわけではない。里に毛の生えた程度の田舎町であったが、それでも城壁はある。泥をわく・・に入れて天日てんぴで乾かして積みあげた程度のものであり、それへこもっている雍歯は魏の後盾うしろだてがあるとはいえ、実際に手持ちの郷党だけの小人数であった。この時期の劉邦の隊はこの程度の町でさえ抜くことが出来ないほどに微弱であった。そういう劉邦とその徒党が、後に天下を制したというのは、どういうことであろう。少なくとも沛や豊の町の人々のとっては、狐につままれたようなものであったに違いない。

雍歯ようしのことである。以下は余談ながら、後の劉邦りゅうほうはこれほどの雍歯を許している。だけでなく、これに兵を与え、ふたたび武将として各地に転戦させ、使えるだけ使ったのだが、このことは雍歯がいかにいくさ上手だったかがわかるし、一面、劉邦という男が持つ特有の── 奇怪なほどの ──寛大さがどういうものであったかについてもよくわかる。劉邦はやがて天下を取る。その直後、諸将の功罪を調べて賞罰すると触れたために諸将は動揺し、たれもが自分のすね・・の傷を思った。それをあばかれて罰せられるくらいならいっそ謀反をおこすといきまいた者もいたししたが、劉邦はこれをしずめるため、側近の言葉を容れ、まず彼がもっとも憎んでいてしかもその憎悪を人々も知っているはずの雍歯に目をつけ。まずこれを抜きん出てこうにし、最初に発表した。一同は、雍歯でさえ許されて賞を受けるのかと思い、一時にしずまった、といわれている。
2020/02/06
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