~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (十二)
「劉邦は、大した者でもあるまい」
項梁は言った。横から范増はんぞうも、左様ですな、まことに小勢力で、大したことはございません、といったんはうなずいた。
「たしかに勢力は大したことはありませんが、しかし幕僚や隊長級を見ると、いずれも器量はずば抜けたもので、ああいう者どもが心服し、彼らが推戴しているという事を考えると、劉邦はそのあたりの流賊の親方とはちがうと言うべきでしょうな」
「ああ、そう思うか」
項梁は、すぐ考えをひるがえし、劉邦の処遇法を思いついた。まだ傘下さんかに入ったばかりで武功をたてていないから官位を決めずに置き、そのかわり劉邦を重んずるという意味で、彼の配下として貸与たいよすべき部隊の長は高位の者にしよう、これで劉邦も無官ながら満足するのではないか、と言った。
「たれをつけますか」
「五大夫たいふの爵位をもつ将を十人つけよう」
五大夫というのは、楚の爵位制度では第九爵にあたる。
後日のことになるが、貸与した兵力は五千人であった。劉邦は喜んで薛を出、豊に向かった。
問題は、項梁自身であった。
「わしはなにになればよいか」
と范増に諮問しもんしたことこそ珍妙なものであった。項梁は本来、この一軍の総帥であるのに王を戴いたためにあらためて自分の地位を決めざるを得ない。范増は、王を呼べと提案した男だけに、項梁のこの点を同情しており、一つの腹案を持っていた。官位や爵位のそとに立ってそれ以上の権威を持つ存在にしようということだった。
くんになればどうかという案である。
戦国の頃。せい孟嘗君もうしょうくんちょう平原君へいげんくん春申君しゅんしんくんなどがいて、公子や王族である場合もあればそうでない場合もあったが、要するに大きな封土を持ち、王に対して強い発言権を持ち、ときに、王国内に独立の政府を持っているような観さえあった。
項梁は、この案に満足した。名称については自分で選び、
武信君ぶしんくん
とした。
ただ、野戦軍を支配している項梁推して実務上困るのは、この薛の町に王がいて朝廷があるということだった。
ていよく遠ざけるために、都を旴台くい(安微省)に置くことにした。
2020/02/07
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