~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (十三)
それから数ヶ月経った。
項梁は、一種の慎重家だけに準備に長い時間をかけたが、それだけに十分の支度が出来、やがて一軍、二軍、三軍とせつを出発して懸案の西進を開始した。はるか西方に秦の根拠地の咸陽があり、最終の目的はその咸陽をくつがえすことであったが、いったんは北進しなければならない。
北方に、黄河が東流している。
黄河こそ、その上流(潼関とうかんからは支流)の秦都咸陽にいたる道であった。さらにいえば、秦都咸陽を養っている食糧の補給路でもある。このため黄河流域の都市はそれぞれが食糧庫のようなものであり、それらを制してはじめて咸陽を衝くことが出来る。
項梁は北進し、全軍をあげて亢父こうほ(山東省・現在、済寧)を攻め、劉邦がかつてあれだけ苦心して攻めて陥ちなかったこの町を簡単におとしてしまった。この攻城隊長のひとりに、劉邦がいた。劉邦は項梁に属してからはじめての戦いだけに、配下の諸将を督励して懸命に戦わせた。協同部隊に、項羽の軍がいた。項羽は劉邦とちがい、つねに陣頭に立ち、みずから矢を射、ほこ をふるい、部下をして火を噴くように城壁へ挑ませた。劉邦部隊はそれほどに苛烈ではなかったが、諸将がよく各隊を掌握し、実に見事に進退した。
(なんと、劉邦の軍のみごとさよ)
項梁も認識を改め、一作戦ごとに兵力をふやしてやった。劉邦は、多々たたますますべんじた。
(劉邦は、部隊が大きくなればなるほどよくやるかも知れない)
と項梁は思い、さらに北進して東阿とうあ(山東省・現在、東阿)を攻めた時、これに大兵を与え、思い切って項羽と共に、左右さゆうよくを構成させる同格の将とした。項羽と劉邦は併進してついに黄河の支流済水せいすいわたり、その北岸の東阿を囲み、これを陥した。
東阿の城市を占拠すればすでに黄河の下流は抑えたといってよく、さらにいえば秦都咸陽までは遠いとはいえ、それへ至る主要道路に出たと言っていい。
(やっと東阿に出たわ)
と思った時。項梁は慎重家としての硬質な部分を半ばゆるめた。彼の持ち前ののんきさのほうが顔を出し、秦はこの程度のものだというたか・・をくった気持ちになった。
彼は、自分の兵威を懐王かいおうに見せたくなった。しかし懐王を呼ぶわけにはゆかないために令尹れいいんの宋義を勅使として呼ぶことにし、
── 河の流れを御覧にならないか。
という急使を出した。
宋義が来た。
(項梁ともあろう者が、増長したか。あぶないいくさをすることよ)
と、宋義は思った。項梁はすでに軍を二つに割っていた。そのうちの一つを自分が持ち、独立軍として、済水から南へ離れた定陶ていとうを攻めるべく準備していた。
他の一つは項羽・劉邦に与え、済水沿いの城陽せいよう(山東省ぼく県付近)を攻撃させるべくすでに出発させている。
両面作戦であった。
(兵の要諦は分散を避け、集中を心がけるにある。項梁は多くもない兵力をなぜ二つに分けるのか)
宋義は、項梁に気はたしかかとさえ思った。項梁は宋義を役立たずの貴族くずれとして見くびっている。しかし宋義は軍隊指揮の経験こそないが机上の兵理論にかけては引けを取らぬ男だった。
項梁はあぶない、と宋義は思った。なるほど項梁は地をくような勢いで亢父から東阿を陥し、黄河の支流の線へ出たが、そのあたりでは秦軍はもともと希薄きはくであった。
(秦の章邯をあまく見ると、ひどい目にあうぞ)
宋義は、秦の章邯将軍の今までの戦いの仕方を見ていて、一つの法則があるということに気付いていた。大兵力を結集させて敵の小を撃つというやり方で、このためには兵力の分散を極力避けていた。章邯は、今のところ西方にいる。
章邯にすれば、遠い東方の亢父や東阿まで相当の兵力を割いて散在させると、彼の得意の「結集して強打」という作戦が成立しなくなるために、強いて東方を秦の地方軍に任せて捨てていたと見ていい。そういう地域で項梁が連戦連勝してしかも秦軍そのものを見くびるというのは、宋義の見るところ、
(項梁は存外、兵に暗いのではないか)
しかも、このたび両面作戦をやるという。各個に撃破されるだけではないか。
「宋義どの」
項梁は、この亡楚の公卿の出の男を、済水のほとりまで案内し、あれこれと説明した。
「私は今から一軍を率いて遠く定陶を衝き、これをくつがえす。ぜひ従軍されよ」
と、項梁は言った。定陶という地名を聞き、宋義はあきれた。項羽・劉邦が攻撃する城陽せいようとは距離がありすぎる。両方面軍は互いに孤軍であった。
「なぜ定陶をめざされますか」
宋義は、念のために聞いてみた。ところがそれまで多弁に自分の作戦を説明していた項梁が、急に声を小さくし、あの町は私が、と言った。むかし住んだことがある、地理や人情に詳しいからね、とのみ言っただけで、他に話をらした。
(定陶に女がいるのではないか)
と、宋義は、項梁の説明が不足の部分を想像でうずめざるを得なかった。宋義は、項梁が放浪時代、各地に女を住まわせてどの女も項梁を慕っていたという噂を聞き知っていた。
この宋義の想像は、重要な部分ははずれていない。項梁が定陶に自分の方面軍の作戦を指向したのは、そこが秦の章邯将軍の本拠に、城陽より一層近いからであり、いずれ章邯と決戦する場合、項羽や劉邦に先鋒をつとめさせるよりも自分が前面に出て、手を砕いて戦ってみようと思ったからであった。しかしそれならば必ずしも定陶である必要がない。定陶には、宋義の想像どおり項梁の放浪時代の初期の女がいる。それだけでなく、今貧窮しているという噂を会稽かいけいにいる頃に耳にしたことがあったのだる。
2020/02/07
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