~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (一)
八月、黄河こうが流域では野菊が花をつけ、天はあくまでも高くなった。
「黄河」
という河もその流域も、楚人たちにはすべてめずらしかった。黄土が常に乾き、水田がなく、家々は泥を固めた壁を持ち、草も木も、楚よりは緑が薄っぽかった。
項梁こうりょう定陶ていとうで戦死した段階にあっては、項羽こうう劉邦りゅうほうも、項梁の采配さいはいで動く方面軍の将にすぎなかった。
両人は互いに僚将として連繋しあい、黄河流域に沿い、西に向かって進撃していた。
兵力の点で項羽軍が圧倒的に大きかった。士気においても劉邦軍よりはるかに勝っていたのは、ひとつには兵士に楚人が多かったせいであろう。
楚人は北人(狭義の漢民族)にくらべ、体が小さく、平均して腕力も弱かったが、燃えやすいあぶらのように感激性が強く、さらには隊伍お組む時、気をそろえて進退するとういう点ですぐれていた。
大楚タアチュウ!」
と、いっせいに唱和する団結力は、黄河流域人から見れば、むしろ気味悪いほどであったにちがいない。
ついでながらこの当時の楚語というのは北方の漢民族の言葉ではなく、タイ語系だっただろうという説もある。ともかくも、黄河流域まで来ると、言葉が通じなかった。
楚人たちは、首領の項羽が、同じ言葉と同じ文化を持つ楚人であるということで、北方人には理解しがたいほどの親近感を彼に対して持っていたし、そのうえ、項羽が稀代の猛将であるという点に、動物的なまでの信頼感を、集団として共有していた。この時代、兵士というのは首領の肉体的武力に信倚しんいするところが強く、さらに言えばもし首領が殺されれば何百万という軍隊でもたちどころに四散する。このこともまた、この大陸において英雄が成立する条件であったろうし、次いで言えば、その英雄たるものはたとえば項羽が一八四センチという躯幹くかんをもっていたように、多分に肉体的に超人であることが条件とされた。
むろん、首領というものは、敵を見れば猛然と突進するてい・・の、いわば暴虎のような気力を持つほうがよい。この点項羽の勇は人間離れしているといってよく、項羽嫌いの宋義がのちに「猛如虎」と暗に項羽をふうしたのは適評であったといえる。ただしこの時代、この大陸にあって虎と評せられるのは、不徳と兇悍きょうかんという意味が濃厚にこめられていて必ずしも当人にとって喜ばしい評ではなかったが、しかし、そういう種類の男に率いられる兵士たちにとって、これほど心強いことはなかった。
2020/02/09
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