~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (二)
項羽と劉邦の軍は、同一線上を相前後して進み、黄河流域の諸城を次々とほふって、ついに中原ちゅうげんにおける最も重要な都邑とゆうである陳留ちんりゅう(河南省開封付近)を眼前に見る所まで来た時、総司令官の項梁の敗死を聞いた。
「あってよいことか。──」
と、項羽は、重い鞾子ブーツをはいた右足をあげ、地が割れるほどに踏みおろし、なおもその死を疑い、使者を大喝した。
「定陶では勝っていたはずではないか」
なるほど項梁の主力軍は敵のしん軍の勢力圏の真只中に入りすぎた観はあったが、しかし常勝軍が突如大敗し、首領までが敗死するという事が、常識として考えられることではない。これに対し、急使は、状況を説明した。そのあと、項梁軍の敗残兵がつぎつぎに項羽軍を慕ってやって来たため、項羽も事実として認めざるを得なかった。項羽は、少年の頃から父代わりの保護者であり、師でもあったこの叔父の死がよほど悲しかったらしく、ひと前で吠えるようにいた。
かつ哭き、」かつ叫んでは、この昂奮の中で復讐戦の発動を呼号したが、しかしまわりの武将たちの顔色は一様にえなかった。彼らは秦軍の恐ろしさをあらためて思い知らされ、今までの勝利はあるいは僥倖ぎょうこうだったのではないかと恐怖と共にかえりみた。
劉邦の幕営にも、この悲報が入った。
── どういうわけだろう。
と彼はつぶやいた。彼のとって項梁は、彼を項羽と同格の将軍として取り立ててくれた恩人ではあったが、むろん身内ではなく、さらには接触の期間がきわめて短かったために、悲しみというのはおこらない。背後を思わずふりかえりたくなるような恐怖心はあった。なんといっても味方の主力軍が潰滅し、前線の彼と項羽が孤立したのである。しかしそういう恐怖は別として、というよりもおびえ・・・以上に劉邦には事態がふしぎであった。なぜ常勝の項梁が負けたのか。
劉邦という男は、こういう場合、自分の判断を口走らずにひたすら子供のような表情でふしぎがるところがあった。そういう劉邦のいわば平凡すぎるところが、かえって彼の周りに、項羽の陣営にはない一種はずみ・・・のある雰囲気を作り出していたといえる。幕僚や武将たちは、劉邦の無邪気すぎるほどの平凡さを見て、自分たちが労をおしむことなく、かつは智恵をふりしぼってでもこの頭目を補助しなければどうにもならないと思うようになっていたし、事実、劉邦陣営はそういう気勢きおいこみが充満していた。
といって、劉邦という男は、いわゆるあほうきおというにはあたらない。どういう頭の仕組みになっているのか、つねに本質的なことが理解できた。
むしろ本質的な事以外は分からないとさえいえた。
このたびの項梁の敗死についても、蕭何しょうかその他から説明を聞き、
「ああ、そうだったのか」
と、心から彼等の説明に感心した。
劉邦が理解した問題の本質とは、要するに何でもない。秦が強いということである。正確に言えばなお強大であるというだけのことであった。
次いでいえることは、秦の一大野戦軍を指揮している章邯しょうかんという男が途方もない名将だということである。
章邯は、限りある野戦軍を必ず分散させることなく、必要なときに大いに結集させ、全力を挙げて敵を破る。このため、戦場に疎密ができた。黄河流域の町々については章邯はそれをにして楚軍の蹂躙じゅうりんにまかせ、項梁がいい気になって秦軍の濃密な地域に入り、深入りしたところを、章邯は大鉄槌だいてっついをふりあげて、小石を砕くようにこれを砕いたのである。
「なるほど、おれは黄河の流れに沿って西を目指して来たが、勝ち進んでいると思い込んで来た。これは章邯が勝たせてくれたのか」
と、劉邦はまずそれに感心し、次いで項梁が章邯の壮大なわ・・なにかかったという解説によって感心してしまう。この感心の仕方に一種の愛嬌があり、愛嬌がそのまま人々に德を感じさせるふうを帯びていたために、劉邦が進むところ、智者や賢者があらそって彼の幕下に投じて来るという傾向があった。
ただ劉邦軍が、士卒の士気の点において項羽軍に劣っていたのは、まず劉邦その人に白熱するような武勇が感じられないというところにあった。さらには、劉邦から軍政面を一任されている蕭何がきわめて厳格で、占領地で略奪りゃくだつすることを禁じているからでもある。歴世、この大陸にあっては兵士と盗賊の区別がつきがたく、戦って勝てば掠奪し、掠奪を期待しる事で士気もあがるという習性があったが、蕭何はこれを嫌った。
「秦は民に対し、餓虎のようなものであった。その秦を倒すのにわれらが餓虎になっては、何のために起ちあがったのか、意義を失う」
と、元来が民政家あがりのこの男はおそろしく真っ当な事をいっていたが、しかし全軍の兵糧調達を受け持つ彼としては、このことが兵站へいたん戦略にもなっていた。掠奪をしないとなればどの町も村も劉邦軍に食糧供出の労をとってくれるが、そうでなければ食糧は地下にかくれてしまい、蕭何自身が四苦八苦せざるを得ない。むろん、劉邦軍の士卒といえども、掠奪はした。要するに、項羽軍に比べ程度の差に過ぎなかったが、その差が県や郷への宣伝の効果として役立った。一面士気という点では、この種の軍令はこの大陸の習慣に反するという事で兵士の期待をいちじるしくぐということもあり、必ずしも昂揚に役立つということはなかった。
以上、ごく印象的にいって項羽軍は華やかであり、劉邦軍はどこか地味であったといえる。
2020/02/09
Next