~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (三)
項羽は、既定方針どおり陳留ちんりゅう城を攻めた。
このことは、いかにもこの男らしかった。項梁が死に、主力軍がついえてもなお眼前の陳留城という敵を見ればそれへ挑みかかるというのは、物事の計算を平然ろ越えることが出来る神経というべきであった。
劉邦もつい項羽軍にひきずられて攻城に参加したが、項・劉いずれを問わず、楚軍全体に秦軍を怖れる気配がつよく、武将たちも城壁に近づくことをいやがり、それを強要すると夜陰ひそかに陣を払って郷国に帰ってしまう士卒群もあった。ある日、劉邦は前線を視察し、
(これでは、とても勝てない)
と思った。
場合によっては総崩れになる、と思った。挙兵以来、勝よりも負けることにれてきたこの男は、一軍がおくしているにおいをぐ点で、項羽よりも鋭敏なかん・・を持っていた。彼はそのまま幕僚を率いて項羽の本営に行き、ゆかへあがると、主人に対するような慇懃いんぎんさで拝礼した。劉邦はこのとし四十一歳であった。孫があっても不思議ではない年令だったが、二十五歳の項羽に対し当初からそういう態度を取り続けているのは、ひとつには蕭何の入れ知恵による。劉邦の行儀の悪さは相変わらずであったが、それを項羽や項一族の前でやると無用の反発を買う事を、蕭何はつねに劉邦に教えていた。
劉邦にとって煩瑣はんさな礼儀上のやりとるが終わった後、顔をわざと深刻にして提案した。
「退却しましょう」
とは言わなかった。項梁こうりょうの死は全軍の悲しみである。さらには新都の盱台くいにおわす懐王の宸襟しんきんはいかばかりであろう、ここはひとまず兵をひき、新都に帰り、諸将を集めて善後策を講ずることがむしろ急務ではあるまいか、お説いた。
このころ、項羽の側近に范増はんぞうがいる。
この老人はさきに項梁に接触してその軍師になったが、定陶ていとうの敗戦の時農民に身をやつして秦軍の囲みを脱け、途中、数度秦軍に誰何すいかされた。しかし秦兵たちも、熊手でいたような日焼けじわのあるこの老人を見て、百姓以外の何者とも思わず、しのつど放した。范増は、方角については神秘的なほどの感覚を持っていた。たとえば若い頃からしばしば旅をしたがみちをまちがえるということは一度もなく、この時も、定陶から五日以上の日程を夜間歩き、一度も途をあやまることなくまっすぐに項羽の陣営をさぐりあてた。
以後、当然のようにかたわらにしている。帰着するとすぐ項羽に退却を献言した。
── いったんは、屈すべし、いま退却することは、つぎに勝を得る事です。
この范増の言葉が下地にあったせいか、項羽は、あっけないほどの素直さで劉邦の提案を受けれた。もっともこの場合、かたわらにいた范増のほうが、内心あきれる思いがした。
(項羽とは、こういう男か)
と、思った。じつのところ范増が退却を説いた時は項羽は必ずしも怡々いい とせず、むしろ復讐を唱え、陳留城など踏みつぶしてしまおう、などとつぶやいたりしたのだが、劉邦の顔を見るといきなりその説に従ったというのは項羽の性格に欠陥があるのか、それとも相手の劉邦の人柄にえたいの知れぬ何事かがあるのか、あるいは項羽は劉邦に魅かれるところがあるのか、いずれにせよ、このことは黒いかげりのように、范増の脳裏で消え難いものになった。
2020/02/10
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