~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (五)
彼等は、再起の根拠地としての彭城ほうじょう(のちの徐州じょしゅう)をめざした。
彭城は、春秋・戦国のころから栄えた地方都市で、劉邦の故郷とはほぼ同地帯にあり、おなじく泗水しすい郡に属し、泗水の低湿な農業地帯にあって、水陸の交通の要衝ようしょうをなしている。
ついでながらこの町(徐州)にともなう後の歴史にふれると、後日、項羽が自立した時にここに都を置くことになる。項羽はこの町から四方に対し、「西楚の覇王はおう」と称するにいたるのである。
下って唐代にいたり、はじめて徐州と改称される。のちしばしば名称が変わった、さらにはたびたびこの町をめぐって大戦があったのは、不思議なほどであった。そのわけは、四方に道路が出ているために大軍の集散が容易で、会戦という現象が成立しやすく、兵法でいう衢地くちをなしていたからであろう。日中戦争の時にも日中両軍の大会戦(1938)がおこなわれ、その後、一九四八年八月十一日、人民解放軍が、国府軍とここで会戦し、十四個師団を全滅させて、内戦の勝利を確立した。
彭城の地は、項羽・劉邦の頃から、そういう運命を持っていたらしい。
「彭城に来られよ」
という使いは、項羽のもとから、盱台くいにいる懐王かいおうにまで発せられた。懐王は報に接し、すぐさま彭城に向かった。王が臣下から呼ばれて軽々しく動くというのは、故項梁によって擁立されたという弱身から出ているが、その項梁も死んだ。懐王はそろそろ自分がそういう傀儡かいらいであることにあきたりなく思うようになっていた。

懐王の心強さは、旧楚の貴族の宋義そうぎが、影に形に寄り添うようにしてついていることであった。
宋義は、少し前に、野戦の中にいた。幸い、定陶の敗戦の時、城外遠く離れた地点をせいに向かって旅行中だったために敗死をまぬがれ、たまたま出遭った「斉」の項梁への使者高陵君顕こうりょうくんけんとともにはしって戦場を脱し、懐王のもとに逃げ戻っていた。
「宋義さんには、驚きましたな」
という宋義を礼賛する言葉を、斉の高陵君はしきりに懐王の耳に入れた。
「ただの公卿くげ上がりではございませぬ」
と、ほめた。定陶の敗戦を予測したのは彼が戦略家である証拠だという。
(戦略家か)
懐王は、自分の股肱てあしになる人間を欲していたが、彼の側近を見まわしても戦争が分かる人物がいなかった。宋義がそうだという。由来、かの者は楚の令尹れいいんの家に生れて儀典に通じていると思ったが、いくさ・・・がわかるとなれば、もうけものといっていい。
(宋義を重陽しよう)
と、懐王は思った。宋義は人心の表裏や世の情勢に通じ、策謀にたけているということは懐王もうすうす気付いていたが、それ以上に将帥しょうすいの能力があるとすれば、言う事はない。宋義を新興の楚の中心に据え、項羽や劉邦以下のえたい・・・の知れぬ豪傑どもを統御させれば、自分の王権も傀儡からまぬがれてまつたきものになるに相違ない。
(たとえ宋義が悪党であってもよい。宋義の毒を以て項羽という毒を制するのだ)
と、懐王は思った。
2020/02/11
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