~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (六)
宋義は、すでに五十を過ぎていた。流浪の中で多くの子をなし、また旧族も多い。宋義が羊飼いのしんをかついで楚王にし、たいそう羽振りがいい、という噂は、諸方の血族に伝わり、そういう連中が蠅のように宋義にたかってきた。
彼等は宋義にぶらさがることによって飯を食いはじめたが、宋義はそういう連中に寛容であった。成功すれば有縁無縁の者にぞくを食わせるというのがこの大陸の習慣である以上、このことは宋義の人格とは 善悪なんの関係もない。宋義が旧楚の名門だったために、その種の一族・・が女子供を入れて二千人を越えた。奴婢ぬひまで入れれば三千人に達するという大層な所帯にふくらんだ。
この点、宋義は、たとえば項羽のもとにいる范増はんぞうのように、孤影をつねに清らかにしているひとりきりの男ではなかった。彼は、大族を食わせてゆかねばならなかった。というより、その状態が早く来すぎた。楚が、今後、無数の戦いを経なければならないというのに、宋義は、ありのように集まって来た連中のために早くも大族を形成してしまい、それを食わせることから、物事を考えざるを得なかった。流浪の頃の宋義はよく物事が見えた。しかしこの時期あたりから、この男の身動きは、私情でくらみはじめている。
たとえば、この男が「斉」に深入りし過ぎているということも、私情が根にあったからにちがいない。
斉などという国は、楚と同様、公認・・された国ではない。秦帝国のゆるみに乗じて、かつて秦に滅ぼされた戦国封建のころの国々が、呼称として息を吹き返した。流民の中からかつての王族であると称する者が、ちょう、あるいはなどと称したりしているなかで、斉も同様の事情にあった。
斉の場合、てき(山東省)の地にいた田儋でんたんという男が、陳勝ちんしょうの乱に乗じて挙兵し、狄県の県令を殺して自立し、斉王を称した。田儋の家は本来、ながく民間にうずもれていたが、かつての亡斉の王家の姓である田氏を称して来たため、「おれが王になってもすこしもおかしくない」と言い、斉の故地になだれ込んでここを略定し、一時は大いに強勢を誇った。
秦の将軍章邯しょうかんは、一大野戦軍を率いて西に東に機動し、この種の自立国を攻めつぶしてゆくことに、めざましい働きを示した。彼は魏の地になだれ込んで魏王きゆうという私称王を臨済りんせい(河南省)に包囲しているうちに、魏は悲鳴を上げて斉の田儋に救援を求めた。田儋は大軍を率いて赴援したが、章邯将軍の巧妙な作戦によって臨済城下で大敗し、戦死した。
田儋の死後、斉の内情はいいようのないほどに混乱した。田姓といっても枝葉が多く、その中でも亡斉の王家の血を継ぐ者がにわかに立って王になり、それにつながる枝葉の田姓の者を宰相にしたり、将軍にしたりした。これに対し、故田儋とともに前線にあったその弟(田横でんおう)いとこ・・・(田栄でんえい)などが疎外された。彼等はこれを憤り、敗兵を率いて楚の項梁に頼った。項梁の後ろ盾を得た古田儋系の田氏が、血統的な筋目であ斉王を追い、田儋の子を擁立ようりつして斉王とした。追われた旧斉王系の田氏が四方に散ってそれぞれの勢力を頼り、それぞれの思惑で斉を攻撃したり、策略さくりゃくをほどこしたりして、その内紛は錯綜をかさね、共通の敵である秦帝国などは斉人にとっては意識にものぼらぬほどに紛糾ふんきゅうしていた。
2020/02/13
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