~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (七)
宋義という男の厄介さは、策謀好きであることであった。
彼の属している楚でさえ秦軍と戦ってまだ国をなしていないというこの段階にあって、よその軍閥国家である斉の内紛にまで手を出していた。それも、内紛の中の一派と ひそ かに手を握っているのである。
斉の田氏はすでに触れたように、旧王家の田氏であり、その田氏も派閥化して数系統に わか れており、また故田儋系の田氏も、いぅつかの派閥にわかれて、互いに離合しつづけている。宋義が、定陶の郊外で偶然出会った斉の勢力者 高陵君顕 こうりょうくんけん というのは、故田儋系の一派閥を代表していた。
定陶の敗戦後、宋義は高陵君を懐王のもとに連れて来る途中、泊りを重ねているうちに、すっかり 昵懇 じっこん になり、ついには高陵君が、
「宋義どの、私を弟と呼んで下され」
というまでになった。高陵君にすれば斉は自立しがたいほどに弱い上に、内紛を重ねている。他国の援助がなければ、斉全体どころか、彼の派閥そのものが他派閥に対して自立する事すら出来ない。その点、楚は将もすぐれ、士卒も強く、いわば軍事的に優越していた。楚の有力者である宋義の心をつかまえておけば、いつなんどきでも救援群を送ってくれることになる。
この点、斉の使者高陵君が宋義を取り込もうとするのは、彼自身と彼の派閥、ひいては斉国の存亡にかかわるというほどに、期待するところが大きく、いわば命がけだったといっていい。
宋義にも、そのことはよくわかった。
(おれの右の指一本で、斉の運命を左右することが出来るのだ)
と思うようになった。他国の内紛に深入りして加担する者は結局その内紛の直接の影響を受けて自分をも国を滅ぼすことになるという道理を、宋義はどの程度にわかっていたか。
「斉の場合、宰相を誰にするかということだけでもむずかしいのです」
と、高陵君が、道中で言った。諸派閥があるために一派から宰相を出せばかえって内紛の火に油をそそぐことになる。いっそ閣下の御子息の 宋襄君 そうじょうぎみ いただ くわけにはまいりますまいか」
と、高陵君が思いきったことをもちかけた。高陵君にすれば宋義の息子を斉国の宰相にしておけば、ゆくゆく斉国が危難に見舞われる場合、かならず楚軍が助けに来る。斉から見れば てい のいい人質のようなものであったが。宋義から見れば斉国をつねに手下として引き付けておくのにこれほどいいことはない。
もしこれが実現すれば、楚にとって宋義は斉の間諜になったともいえるだろう。
(なるほど、そんないい手があったか)
と、宋義が思ったのは、楚国を思ってのことではなかった。楚国を思ってのことなら、ここれほど危険な事はない。宋義は自分の一門の利益のために、楚からも 食邑 しょくゆう を貰うことが出来、斉からも貰うことが出来る。数千という族員や奴婢を養うのに、斉国に半ば負担させることになり、宋義としてはまことに都合がいい。
「いや、襄は凡庸な男で、とても宰相というような重職に堪えられません」
と、この大陸の流儀で、何度か断った。事実、宋襄はただのそのあたりの少年に過ぎない。が、高陵君にすれば庸人であればあるほどよく、ぜひお願いしたい、と乞うた。
「さあ。どうだろう」
宋義は小首をひねっているこせに、顔は笑みくずれている。笑うと下唇がゆるんで、宋義らしくない下卑げひた感じが、ただよった。宋義は、高陵君にこの件につき、もう一押し言ってほしいために、小首をかしげつづけているのである。高陵君は察し、さらに、
「襄どのにしてもしお考えがお若ければ、父君である閣下が、楚の地からはるかに後見してくださればよいのです」
と、まことに売国というほかないことを言ってしまった。斉を楚の属国として、たとえば宋義の懐にねじ込んでしまったような発言だったが、しかし高陵君としてはその立場上、よほどの思いがあってここまで言葉を広げてしまったのであろう。この発言は、高陵君が斉を売ったともとれる。でないとも、とれる。
じつをいうと、斉などという国は元来この地上に存在しないのである。あるのは、斉の故地にある内紛中の軍閥というだけのことであり、捨てておいても内紛のために消えるべき存在であった。この場合、大損をするのは宋義のほうであったが、宋義は欲におおわれて気づかなかった。息子を斉の宰相として送れば、そのあと、宋義の言説は楚のために何を論じても、「斉のためにするものではないか」と疑われ、たれもが本気でその意見に耳を傾けなくなり、ついには楚のなかで没落するのではないか。が、宋義は、この一件を高陵君に約束した。好んで毒を飲んだと言わねばならない。
ただ宋義にわずかに同情すべきところがあるとすれば、彼が、楚において安定した地位を確立しているとはいえないということであった。そのためには、懐王の信頼もつないでおかなければならないし、同時に自分のために懐王の王権を鞏固きょうこにするという策謀もしなければならない。むろん王権が強くなれば宋義はその袖にかくれて権力を増大出来るわけである。以上、いかにも公卿出身らしい行き方を宋義はとっているが、高陵君も、宋義のこお立場をよく呑み込んでいた。さきに高陵君が懐王に対し、しきりに宋義の兵略家としての能力を推輓すいばんしたのも、以上のような両人の思い入れと、背景があったのである。
2020/02/14
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