宋義は、懐王の供をして楚都の
旴台
から北方の
彭城
ほうじょう
まで行く間に、十分にこの若い王の信任を得た。
(やはり、旧楚の
令尹
れいいん
の家に生まれただけに、他の者と忠誠心において違う。この男の言葉以外、たれの言葉をも信ずべきではない)
とさえ懐王は思うようになった。
とくに斉を
隷属
れいぞく
させてその兵力を楚の防衛のためにこき使うという宋義のひそかな提案には、感じ入ってしまった。
(真の忠君の人とは、宋義のような者をいうのだろう)
と、懐王は思った。懐王が、諸将に対し、王として
脆
もろ
い形でしか君臨できないのは
直率
ちょくそつ
の軍隊を持っていないからである。
「ゆくゆくは斉軍をひきいられて、陛下の直率の軍隊になさればよろしゅうございましょう」
と宋義がいった一言ほど、懐王の心を打った言葉はない。将来、項羽や劉邦が増長してきた場合、王みずから斉軍を率いてこれを討つ、というところまで、あるいは宋義は
諷
ふう
しているのかも知れないと懐王はひそかに思った。
前線から引き揚げて来た楚軍は、彭城の城外に宿営している。
彭城そのものは懐王のために
空
あ
け、劉邦軍などは彭城からもっとも遠い西方の
碭
とう
(
安徽
あんき
省碭山の南)に宿営し、また
呂臣
りょしん
という者が率いている一軍は彭城の東にいたし、最大の軍である項羽軍は彭城の北にたむろしていた。彭城の城頭から郊野をながめると、地に
旌旗
せいき
が満ち、そのとりどりの色が、地を織るようにはるかな秋天の下までつらなっている。
ときに、九月であった。
項羽以下の諸将が、それぞれ単騎、懐王を南郊に出迎え、彭城の南門にいたるまでの間、王の
鹵簿
ろぼ
を前後して警護した。
この大陸にあっては、後世、儒教が普及する以前から礼楽という文化意識が強い。とくに王侯に呈する礼が厚く、その厚さそのものが、中原ちゅうげんの内外に散在する少数民族と異なるところだと気分がある。
が、秦帝国の政治原理は、その点を根底からくつがえした。封建制を打ちこわしたこの帝国は、地方々々に封土ほうどを持っていた王侯を追い、王に代わるものとして郡に長官としての郡守を置き、侯に代わるものとして県に県令を置いた。彼等地方官は王侯と異なり、中央から任免される存在に過ぎない。
このため悪徳の地方官が出ればこれを辞令ひとつで罷免ひめんしてしまうというところに新制度のよさがあったが、しかし一面、新制度になじめない地元の有力者から地方官たちが、かつての王侯とちがい、軽蔑されるというところがあった。
彭城の南門から入って来た懐王の行列は、かつてこの地を治めていた県令のそれとは大違いで、鹵簿を構成する車の数もおびただしく、それに奏楽の音が前後した。ときに笛の音が輪のころぶように地を駆け、ときに金属楽器の打ち合う音が、鏘々しょうしょうとして人々の耳をおどろかした。彭城の市民は、この車駕の列や奏楽の音を聞いた時、
── もとの世が戻って来た。
と思った。王侯の世を歓迎するわけではなかったが、かといって秦の世をなつかしむ者はいない。
秦の体制はたしかに理想としては見事なものであったがm、しかし、この地上に布しくには、なお未来に対して千年以上の歴史の成熟が必要であった。それに、士人や庶民が秦の体制の善悪など論ずるゆとりがないほどにその税が生死にかわかわるほどに重く、その労役が多くの人々から生をうばうほどに苛酷であった。人々にすれば、まだしも王侯を重んじていればそれだけで済んだ時代の方がなつかしい。そういう気分から言えば、懐王のこの大仰おおぎょうな車駕は、人々にとって、一種の安堵あんどを呼ぶものであったに違いない。
(なるほど、王となればえらいものだ)
と、劉邦は、一将軍としてこの行列に参加しながら、彭城の市民と同じ感覚を持った。劉邦など、草深い田舎に生れた男にとっては、旧時代でも王の車駕を見たことがなく、秦の時代になって始皇帝の行列を見たことがあるだけで、ともかくもこの古典的壮麗さに耳目をおどろかされた。
一方、同じ車駕の中にまじいている項羽の場合は、これに驚かなかった。
(なんというはめ・・になったのだ)
と、別のことで腹が煮えかえっていた。本来なら叔父の項梁が、いずれは王か皇帝になってこういう鹵簿のあるじになるはずであったが、羊飼いの心しんという男を捜し出して来て楚王に奉じたばかりに王になれず、一将軍として前線で死んでしまった。もし項梁が王など奉じなければ、項梁の死後、この車駕を率いて彭城に入城する者は。項梁の相続者である自分だったに違いない。
(それにしても、王とは大層なものだ)
と、項羽は思うには思ったが、劉邦のように無邪気に感心しなかった。この大層さを作り上げた張本人なのはあの公卿くずれの宋義のやつにちがいないと思った。宋義が、亡楚の儀典に明るい老人を探し出してこういう趣向を演出したことに相違なく、宋義以外にそういう権限と能力を持つ者はいないはずであった。項羽は腹立たしく思いながらも、滑稽なことに、つい王の威厳に身がちぢみ、頭が垂れてしまう自分をどうすることもできない。
(王がえらいのではない、王をえらく見せている儀礼に、おれまでがつい身を跼かがめてしまわざるを得ないというだけのことだ。宋義が、背後でおれたちを誑たぶらかしているにすぎない)
とも、思った。この鹵簿の中で、平素粗暴で感情的といわれている項羽ひとりが、哲人のように醒さめきった目と心で存在していたというのは不思議なほどであったが、そのことは、かつて項梁と共にこの乱を主導してきた彼にとっては、歴史上、当然な心懐であったと言えるかも知れない。 |
2020/02/17 |
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