~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
宋 義 を 撃 つ (十)
軍議は長びいた。しばしば休憩があった。
諸将は休憩のつど湯を飲んだり、庭に出たりした。庭には木陰ごとに諸将の幕僚がたむろしており、どの将軍もそういう連中に議事の内容を説明し、どうすればよいか、などと意見を徴したりした。
このため軍議は何度もぶつ切れになった。そのかん、懐王の重大発言があった。
関中かんちゅうをくつがえすのが、最終の目的である」
と、懐王の言葉は、そういう内容から始まる。もっともすぎるほどのことであった。
関中という地理上の言葉は、歴史、政治、あるいは文化上の華やぎとよもに、この大陸にあっては特別のひびきをもつものであった。日本史でこれに似た地理上の語感といえば、せいぜい戦国時代、京都市街のある山城やましろ盆地か、江戸時代、江戸市街をふくむ関東平野といったところであろうが、規模はむろん大きく異なる。
関中の方が、けた外れに大きい。
関中という地理的呼称の語源は、当然ながら関所の内側、という意味である。その関所の代表的なものは函谷関かんこくかんであった。
関中をとりまく関所としては、他の方角に武関ぶかん散関さんかん蕭関しょうかんなどがあるが、ふつう、関中とは函谷関の内側というふうに解されている。中国大陸の奥座敷と言ってよく、大陸部から入って函谷関をくぐり抜けて関中に入ると、広大な盆地になっている。関東よりも高所にありながら水利が発達し、渭水いすいが黄土層をうるおし、この時代、農業生産高も大きく、函谷関を閉ざして盆地ぐるみ籠城してもゆう・・に大きな人口を養うことが出来た。かつて、しゅうもこの関中に都を置いた。秦帝国もこの地の咸陽かんように首都を置き、のち漢もここに首都を定め、後代、とうの首都長安ちょうあんが置かれるにおよんで関中の全盛期を迎えたが、ついでながら唐の長安の頃には秦の頃と違い、関中の農業生産高が大いにさがって、むしろ食糧を他から移入せざるを得なくなっていた。
懐王が言うとおり、秦都咸陽のある関中をくつがえすことこそ、抗秦にちあがった反乱軍としては最終の目的であろう。関中さえくつがえせば懐王は秦のあと・・をうけて帝国を形成し、皇帝たり得るのだが、しかし、ここで彼は不思議な発言をした。
「諸将は大いに競進して秦と戦え。最初に関中に入った者を関中王とするであろう」
と約束した。関中が持つ政治・経済上の価値からみて、その競進の勝利者である「関中王」こそやがてはこの大陸の主人たり得るための最短距離に位置すると言えるかも知れない。すくなくともそういう想像が、どの野望家の脳裏にもうかんだ。懐王だけがそれを思わずに右のことを言った。懐王にすれば前面の秦の軍事力があまりにも大きく強く、諸将に死力を尽くさせてこの猛火をい潜らせるには、とういほうもない褒賞を設定したほうがいいだろうと思ったからであろう。懐王は利口なようで、多分に子供のようなところがあった。
最後の休憩の時、懐王と宋義はいったん奥にひっこみ、命令安を作った。十分に衆議を尽くさせ、諸将がくたびれた後、衆議とは離れていきなり命令を下すのである。でなければ、王の権力と尊厳の確立は期しがたい。
命令の主要部分は、楚軍の主力を以て北方の主力軍を鉅鹿の野で撃滅しなければ、逆に楚は章邯に滅ぼされるに違いなく、この意味で鉅鹿の戦いは楚の存亡を決するものになる。
宋義は懐王に対し、みずから上将軍になることを希望し、れられた。宋義は楚軍の主力を握ることによって、せいなどに対する楚の外交権をもあわせるという計算をした。この小さな計算以外は、宋義の戦略は真当まっとうなものといえた。問題は、項羽の処遇であった。彼を次将軍とした。
「しかし、(項羽)は、承知するか」
懐王は、不安がった。なんといっても楚軍はもともと項梁のものであり、その相続者の項羽が、他から来た宋義の指揮に甘んずるなどは、考えられない。
「項羽に公という称号を与えましょう」
と、宋義は言い、懐王の不安を消した。いやな男を位打くらいうちにするというのは、貴族の常套手段であった。
宋義の戦略の妥当さは、別働隊を創設した事であった。これは雑然とした小部隊でよく、進路を関中にさだめ、咸陽をくつがえす勢いをもって西へ直進させるのである。北方の鉅鹿にいる章邯は関中の空虚をかれるかと見て狼狽ろうばいし、彼の軍の半ばを割いてこの方面に走らせるに違いなく、これによって主力は手薄になり、鉅鹿の決戦は大いに楚軍に有利になるに相違ない。
2020/02/21
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