~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (二)
この大陸は、春秋戦国の動乱を経て、賢者、策士といわれるような情報通や入説家にゅうぜういかの才能をふんだんに育ててきた。かつての戦国の野心家たちは実力者を歴訪しては国際関係論を説き、あるいはその情報を仕入れ、ときに他の実力者のもとへはしってそれを売りつけたりした。それが渡世だったというよりも、才能というこの不思議な人間の課題の中に含めるべきもので、かられは何よりもそれによって自己を表現することをたのしみ、ときに利害も身命も捨ててそれに淫することさえあり、一種の賢者、策士の文化というべきものが出来上がっている。
范増などは、あるいはその才というものに淫する者の一人といえるかも知れない。
范増の前半生は戦国時代に属し、後半生は亡国の民として秦帝国の治下で逼塞ひっそくした。陳勝以後の動乱が起こったのは彼の七十の時で、本来なら故郷の居巣きょそうでわずかな田畑を耕して退隠の暮らしを続けているべきところ、項梁のもとに行って策を売り、信頼されてついその参謀になってしまった。范増の持つ才能のうずきがそれをさせたといえる。
そういう范増から見れば、
(攻略ほど面白いものはないのに、項羽がそういうことに薄い関心しか示さないのは、この男は、自分のいくさ・・・好きの嗜好しこうにひきずられているせいか)
とも思ったりした。
しかし、項羽の粗玉あらたまぶりを面白がっているわけにもゆかず、ともかくも、項羽が北方の主舞台に出て行く以上、戦争の状態を説明するとともに、戦争と不離の要素である政情をも話しておかねばならない。
北上する軍族の中で、范増は、かつての項梁が叔父であるとともに項羽の家庭教師を兼ねていたように、そういう立場で、北方のについてのいろんなことを話した。
「ここに、長耳ちょうじ陳余じんよという者がおりましてな」
と、この北上の行軍が始まるころ、幕舎で、この二人の人物について語った。
「悪党か」
項羽は、人名が出るたびにまず善悪を聞くため、范増として話しにくかった。
長耳、陳余ともに戦国生きのこりの策士である。魏の遺民たちがこの二人を賢者と呼んでいるが、ともかくも秦帝国の成立以前から魏の名士せあったことはまちがいない。両人に共通しているのはどちらみ大梁の出身で郷里を同じくしている事である。それに、両人とも若い頃金持ちの娘を貰って運動資金が豊富だったこと、あるいは、かつて秦の始皇帝が魏を滅ぼした時、この両人の魏人に対する影響力が大きいことを知り、各地にふれ・・を出し、「長耳を捕えた者には千金、陳余を捕えた者には五百金」という懸賞金をかけたことなどであった。そのうえ、二人の間柄はただの友ではなかった。死を共にするという刎頸ふんけいの交わりを誓い合った仲で、事実、秦の盛時、変名して逃亡をかさなている時も、つねに離れることなく同一行動をとった。
この度の動乱によって、両人は勇躍した。さっそく反乱の先唱者であった陳王(陳勝)のもとにけつけ、これに属し、出先の将軍の秘書官というささやかな官職を得た。やがて陳王の主力軍がやぶれると、両人はすかさず直接上司の将軍をおだてて旧ちようの地へ軍をすすめ、将軍を擁して趙王に仕立ててしまった。王を作り上げることによって、当然ながら両人は栄達した。長耳は右丞相うしょうじょうになり、陳余は大将軍になるといった具合であった。このあたりの消息は、この二年余のどさくさの中で簇々そうそうとむらがり生えたにわか・・・王国の成立事情の典型のようなものといえる。
そのうち、彼等の擁立した趙王は、秦に内通した一将軍によって殺されたため、長耳・陳余の両人は、かつて戦国の趙の王家の血をひくという者を探し出してこれをかついであらたに趙王とした。
「なんというめまぐるしさだ」
と、項羽は話を聞きながら、話し手の范増がおびえ・・・を感ずる程に表情をけわしくした。項羽に気質では、この種の話は、ただもつれているというだけで不愉快になってくるのである。
「ややこしい事情というのは、どこかうそ・・こけおどし・・・・・があるものだ」
事柄の実体が堅牢でない証拠だ、と言うのである。
「が、必ずしもそうではござらぬ」
と、范増は言った。
稀代の策士二人が作りものの趙王を奉じているとはいえ、そのもとに結集している趙兵だけは本物でござる、と范増は言った。趙兵の志気は秦を倒して共通の母国である趙を再興するということで燃えており、その戦意たるや、項将軍の楚の兵におとるものではない。
しかしながら、趙という国は、右のような内紛で弱体化している。この機を逃さず、秦の野戦軍の総帥である章邯しょうかん将軍が動きはじめた。章邯はすでに楚の項梁の軍を定陶ていとうで殲滅し、項梁を殺している。項梁を攻めつぶした段階での章邯の手ごたえでは、
(楚はここまで粉砕しておけば、再起不能だろう)
ということであった。
この手ごたえを、つぎの方針決定の基礎とした。全力を挙げて北上し、弱体化した趙をこなごなに潰してしまうことであった。
20200227
Next