~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (三)
戦国のころの趙の国都は、邯鄲かんたん(河北省南部)である。
この都市の名は、古来、日本人にとって、『邯鄲の夢』という説話の舞台としてなじみが深い。
盧生ろせいという書生が、老道士から青磁の枕を与えられ、その枕で一睡した。その夢の中で盧生は美女をめとり、かつは道士に挙げられ、やがて累進し、家にあっては五子を得、ちょうにあっては皇帝の高官になり、ついに孫十余人に囲まれて、齢八十で没した。盧生大いにあくびして目が覚め、かたわらのなべをのぞくと、老道士が煮ていたおおあわがまだ煮えていない。「ソレ、夢寐むびナルカナ」と盧生はほんのまどろみのまに人生が過ぎたことに驚く、という説話である。ただし、この説話の中の年号は唐の開元七年とあり、項羽が北上しているこの年(紀元前二〇七)よりくだること約九百年も後代のことである。
右の邯鄲の説話に出てくる事物で、項羽の時代にないものが多い。やきものの青磁は唐代に完成するものであり、項羽の時代にはない。官吏登用試験もずいから出発する。隋以後の書生といえば、科挙の受験を準備する者か、落ちた者である。そのように整頓された時代から見れば、項羽の時代の書生はまことに多様であった。四方に奔走する策士であったり、野戦将軍の命令書を書く書記であったり、あるいは老范増のように参謀であったりする。
要するに右の説話の人も物もその多くは項羽の時代にはなく、あるものは地と人をたぎらせているなにごとかであった。
いまひとつ項羽の時代にあったものは、商業都市としての邯鄲の繁栄である。
邯鄲は、はるかに西方の根拠地である関中かんちゅうと華北平野をむすぶ交通の要衝ようしょうとして、古代から都市として存在した。すでに春秋時代、えいがここに都を置いたし、戦国になってから趙が国都をここにさだめた。戦国時代のある時期からはすでに人口二十万を数えたといわれるから、この当時の世界の都市の水準からいっても大都市といっていい。
長耳・陳余がにわかにつくりあげた趙も、ここを都とした。

秦の将軍章邯の趙への攻撃は、各段階を準備し、確実な方法で行われた。攻撃はまず邯鄲へ指向された。章邯はこの都市に対し、信じ難いほどの力を集中して打撃に次ぐ打撃を加え、ついには都市ぐるみひっくりかえすようなかたちで、潰滅させた。
この時期、無数に出た反乱側の王や侯、あるいはしょうや将の中で、名将の評判をとった者はまだ出ていない。項羽は叔父の項梁の名声にかくれてまだだれもがその能力を評価できない時期であり、現在、関中に向かって直進している劉邦の配下の諸将も、のちのこそ様々な形であらわれ、この大陸の歴史の中で最もきらびやかな行動をするが、この時期はまだ大舞台を踏んだことのない田舎役者として存在しているに過ぎなかった。
その点、秦の章邯はおそるべき器才を持っていた。のち、反乱軍が歴史の正統の位置を占めるために章邯の存在はほとんど注目されなくなったが、ともかくも彼の機動軍が、反乱の火の海の中を転々として敵を各個に撃破しつつ、しかも軍隊内部の統制がよく保たれていたというのは、章邯の才能だけでなく、その人格的統御力も相当なものであったと見なければならない。
彼の作戦の特徴は、さかんな機動性の発揮にある。さらには攻撃すべき要所をよく選び、それを決定するとそこへ兵力の大集中を演じてみせる、というところにあった。いまひとつは、工兵的要素を作戦の正面に押し出したところにあったであろう。
彼は、邯鄲について考えた。
(町そのものが敵だ)
と、みた。
そのように考えたのは、単純な根拠ではない。
中小都市ならば、この大反乱時代の諸都市で見られるように、町の者が郡守や県令などを殺して前時代の封建的名称のついた首領を立て、町の郷土主義のもとに結集してその城郭を秦から防守する。
邯鄲がその過程をとるには商業的な大都市でありすぎた。ふつうの中小都市ならばその付近一帯の郷土主義象徴となりうるし、その都市を守ることが郷土意識の昂揚になるのだが、邯鄲はかつての趙の国都であったとはいえ、それ以上に中原ちゅうげんにおける重要な流通機能として存在している。趙以外のさまざまな地方から商人や職人がこの流通機構の中に参加し、一種のひらかれた国際性をもっているために、田舎風のごく単純な郷土意識の旗をかかがただけでは、人は踊らず、人心は結集しなかった。
しかしながら、長耳ちょうじ陳余ちんよが、えたいの知れぬ若者を趙王として鹵簿ろぼを仕立て、軍隊と共にこの町に入り、
── いまより邯は趙の都ぞ。
と宣言し、市中をきびしく統制した。商人たちにとってはうれしくない。戦乱は流通の機能を停止させたり、兵たちに倉庫を奪われたりして、歓迎すべき事態ではなく、まして邯鄲が趙都として宣言されると、秦の攻撃の目標になり、戦禍を蒙ることがはなはだしくなる。
かといって一方、邯鄲に住む趙人意識の強い人々にとっては、この新事態は強い酒を飲んではげしく酩酊するような興奮がないではない。ところが、長耳のせよ陳余にせよ、趙人ではなかった。
── あれは(大梁は、かつての魏の国都)ではないか。流れ者が、勝手に趙王をたてて、それによって趙をわがものにするというのは、虎狼ころうの野望があってのことだろう。
と、城内のたれもがひそかに思っていた。
20200228
Next