~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (五)
鉅鹿(河北省)という城市は、邯鄲から北東へほぼ百キロほどの地点にあり、華北平野の真っ只中といってよかった。
鉅鹿付近は古来肥沃ひよくの地とされた。鉅鹿の町はその農産物の集散地として、あるいは治所として栄えた。秦帝国が成立すると、ここに広域地方区としての「郡」の治所がおかれ、いよいよ付近一帯の重要な都市になった。
大都市といえる。
ここの趙王と張耳が逃げ込んでほどなく、章邯の将の王離らが追ってきて包囲した。
張耳は、城門を固く閉ざした。
「鉅鹿は、兵多く、食豊かで、陥ちるはずがありませぬ」
彼は趙王をなだめる一方、四方へ救援を乞うべく密使を走らせた。反乱諸勢力に対するこのような工作となると、もと策士の張耳はお手のものであった。
この時期の諸方の反乱勢力について『史記』は簡潔に表現している。
相立チテ侯王トリ、合従がっしょうシテ西ニむかヒ、名ズケテツト為スモノ、フルニ勝フベカラザルナリ。
まず侯王が、数えられないほどの多さで乱立している様を言い、次いで彼ら同士が合従(同盟)していることを指し、さらには、それらがみな口々に「秦ヲ伐ツ」と称号していることをいう。
最後の辞句には、筆者の事態に対する皮肉がこめられているのであろう。乱立している侯王たちの中には、秦勢力の空白地帯において一時の欲望と快をむさぼるために侯王になった者も多く、反乱諸勢力の共通の標榜である「秦ヲ伐ツ」ということはたてまえ・・・・で、その実私利をむさぼっているともいえる。
合従がっしょうというのは、この時代、人々にとってなじみの深い熟語として使用されている。戦国時代の後半、辺境の秦のみがひとり強大であった。これに対し、中原ちゅうげん六国りつこくかんちょうえん せい)が攻守同盟を結ぶことをいうのだが、六国の位置は地理的に北から南へ縦(從)にならんでいる。それを合することを言う。大時代的な外交用語であるとはいえ、この時代、多くの諸勢力が、な流族の集合である段階を抜け出ていないのに、かつてこの用語を互いにしきりに使っているのは、秦軍対六国の諸軍閥というかたちが、そのまま出現していることによる。
「合従のよしみによって、諸方の王侯は兵を送ってくれるでしょう」
と、張耳は趙王をなだめるのである。
張耳のみるところは正鵠せいこうを射ていた。他の国々さえ勇奮して鉅鹿平野に兵を集めれば、秦とのあいだの最終にして最大の大決戦はここにおいて行われるだろうということであった。
「私どもは、強秦をとらえる生餌いきえになるわけです」
と、張耳は言った。たしかに張耳らの趙は、弱国にすぎない。
しかし鉅鹿城に、食い延ばせば数ヶ月の食糧があるということが強味だった。城門を守ってさえいれば、秦軍に対するおとりになる。張耳の不安と愉悦は、自分たちがたくらまずして秦の大軍をおびき寄せる囮になってしまったという事であった。秦の章邯は、その大集中の作戦癖から察して、おそらく全軍をこの鉅鹿平野に投入するだろう。秦はその本拠である関中盆地においては、兵力補充の底を払ってしまっており、章邯の大機動軍そのものが、秦の武力のすべてであった。ここで章邯を叩き潰せば、秦都の咸陽かんように入らずして秦帝国そのものが崩壊するのである。
「我らは、甘んじて討秦のための囮になったわけです」
と、張耳は趙王に言いきかせている。
「これによって、鉅鹿の名は、遠く後世にまで語り伝えられるでしょう」
とも言ったが、ただその囮というものは救援軍が来てはじめて成立するもので、来なければただの孤城にすぎない。
張耳の外交能力は高かった。彼は四方に使いを出すにあたって、とくに鉅鹿が持つ作戦上の重大意義を諸勢力に説く用意をさせた。鉅鹿が滅びれば、楚も魏も斉も、かさねた卵のように各個に潰されてゆくだけで、各国にとっても亡びを防ぐ戦いといってよく、そのことを諸勢力に説いておどしておくこともむろん忘れなかった。張耳が持つ外交能力は、いそがしく旋回した。
20200301
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