~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (六)
秦の章邯もまた、張耳が見たこの鉅鹿城の作戦意義を、同様に受け取っている。ただ章邯の場合、張耳想定のとしてこれを解釈していた。鉅鹿を囮とし、この城外に全反乱軍を集めさせて、一挙に巨岩をもってこれをたたき潰すのである。秦の禍根はこの一戦で根絶し、二世皇帝は以後、平和を楽しむことになるにちがいない。
(この鉅鹿の戦いは、秦にとって最終の戦になるだろう)
と思った。
鉅鹿城の包囲が完成したころ、章邯はみずから主力軍を率いて戦線に到着し、鉅鹿の南方の棘原きょくげん城に本営を置き、前線を督励した。
── 気長に。
と、章邯は王離らに言い含めた。
「鉅鹿を餓えさせる」
秦軍にも、弱点があった。関中からの新兵の補給が少ないという事である。
章邯は、このため兵のいたむことを怖れた。
(兵を大切にしなけらばならない)
彼は王離らに命じて鉅鹿城のまわりに多くの堅牢な付城つけじろを築かせ、夜間はここに籠らせた。
それ以外に、大工事を開始した。甬道ようどうを作る事であった。
ようとは、一斗桝いっとますのことである。甬道には桝のように道路の両側にわく・・がある。
章邯は道路の両側に高い築地ついじをながながと築かせ、それによって通過中の兵士を敵の襲撃から守るという工事を命じた。この甬道の発案者は、記録では始皇帝で、彼は関中の重要な道路をこの甬道につくりかえ、皇帝の専用道路とした。理由は皇という、俗眼に映じてはならないきざしとしての尊厳を守るためで、たとえば彼が帝都の咸陽から驪山りざんへ行幸する時も、いつ往きいつ還ったのか人目にわからぬようにするための装置だったが、章邯はこれを軍事に応用した。
その情報を范増は行軍中に得た。
(章邯とは、評判以上のすごい男だ)
と思った。
もっとも章邯がこの途方もない作戦用の土木工事をはじめたのも、史上空前の土木狂ともいうべき始皇帝の影響が、ごく自然に身についてしまっていたせいかと思える。ともかく彼はこの大地そのものを城塁化したようなこの甬道によって兵員の輸送の安全を期するとともに、大いに補給の安全をも期した。章邯の作戦的特徴は補給線の確立とその持続的安全という配慮が濃いことで、そのためには、前線の出城でじろに向かって血管のように伸びているこの長大な甬道が大いに役立った。
張耳の 飛檄 ひげき は、さすがに諸方を刺激した。
北方に だい という小さな国がある。代でさえ反応した。代はかつて戦国のころ、 ちょう に隣接していた国で、趙の 襄王 じょうおう の時に 併呑 へいどん され、滅んだ。この動乱期に、代も自立した。もっとも自立したのは張耳の策で、彼は息子の 張敖 ちょうごう に軍隊をさずけて代に駐屯させ、地元の意識をあおらせて兵員を募り、一国の てい をなさしめていた。その代から、張敖が一万余の兵を率いて鉅鹿に駆けつけた時は、消沈していた鉅鹿城内の士気が、 熾火 おきび に息を吹きかけたようによみがえった。張耳はむろん喜び、
「代のよなちっぽけな国でさえ、鉅鹿の救援に駆けつけた」
という檄を書かせ、四方に使者を走らせた。
ただし、鉅鹿城のまわりには秦軍が重厚にとりまいて、代軍は近づくことが出来ず、入城どころか、秦軍の背後をうろつき、ついにその手のとどかない要所に塁をかまえて、もぐりこんだ。塁から出れば秦軍に叩かれるために、 さざえ ・・・ が蓋をしたように、ただ しお の変わり目を待つというかたちになった。しかし潮が変わるかどうかという保障は無かった。
張耳の外交手腕によって、援軍がぞくぞくとやって来た。
北から えん の軍も来し、 せい の軍隊も来た。ところがいずれも秦軍の重厚な包囲網と鉅鹿平野そのものを野戦築城化したようなその大がかりな攻囲の仕方に驚き、代のまねをしてあちこちに簡易な城塁を築いて潮の変わり目を待った。というよりも、彼らの出兵は義理が動機であるがために、出来るだけ怪我を避けようとしていた。さらには鉅鹿の陥落は自明であるとさえし、その場合、どううまく戦線を離脱するかという工夫だけを重ねており、いわば戦争見物のようなかたちで日を重ねた。
「援軍は援軍にあらず、逃げるために鉅鹿へやって来たようなものではないか」
城内で張耳はくやしがった。
彼は外交家であって武人ではない。この しき 膠着 こうちゃく 状態を脱するには強烈な武を発揮する以外にないが、どうにも動けなかった。
── 鉅鹿は必ず陥ちる。
ということを、敵の章邯よりも味方の援軍の方がそう思っていた証拠に、たとえば張耳の親友の陳余の場合がある。
20200301
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