~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (八)
城中は食がき、兵士も市民も立って歩けないほどになっている。このなかにあった張耳の陳余への憤りは、凄惨なほどのものであった。彼は、最後の督促の使者として、自分の親族の張黶ちょうえんという者と、陳余の親族の陳沢ちんたくを選び、深夜、城門をわずかに開いて北へ駈けさせた。彼らは変装して秦軍の重囲を突破し、陣余のもとに至った。
「右宰相(張耳)がおっしゃるに、刎頸ふんけいの交わりとは何か、ということでございます。互いのために死ぬということではないか、とおおせあり、いままさにわが死は朝夕にせまっている、にもかかわらず北郊に軍を留めて傍観しているというのは信がないのもはなはだしいではないか、ということでございます」
これに対し、陳余は、言う。秦軍三十余万、そのうち鉅鹿の野には二十四万はいる、と。この強大な敵に向かってわしの兵はわずか二万にすぎぬ、いま行動を起こせば餓えた虎に肉を与えるようなもので、いたずらに軍を全滅させるだけのことである、それよりも後日、趙王および張耳どのの仇をかならずわしが討とう、いま死ねばたれが仇を討つと言ってとりあわなかった。
二人の使者は、後日のことなど信という徳義の前に何の意味がありましょう、たとえ全滅しても、張君(張耳)に対する信を立てるべきではありませんか、と、はげしく説いたために、陳余もたまりかね、折衷せっちゅう案を出した。
「五千人だけ出そう」
ということであった。
この折衷案は、五千人に悲惨な結果をもたらした。二人の督促使はこれを率いて入城しようとしたが、途中、秦の大軍に囲まれ、一人残らず死んでしまった。
そういう状況が、鉅鹿きょろく城とその郊外の野で進行し、事態は趙軍の飢餓が深刻化して潰滅に向かって進んでいる。
楚軍もまた救援のために発向したということは、すでに触れた。が、上将軍の宋義が途中で軍を留め、動かなくなり、次将の項羽が憤慨してこれを斬り、全軍を掌握した、ということも、すでに触れた。
項羽が、単身、宋義の寝所に突進してその首をねたという動機は、項羽その人の直情と極端なばかりの好戦癖、あるいは宋義の身勝手な保身外交への人々の憤慨、といった幾つかの因子があったが、諸将や士卒が項羽の非常措置そちを受け容れたという事実の方がむしろ大きい。
楚軍が、四十日以上の大休止ために付近の食糧を食い尽くしてしまい、飢寒のため士卒は不平を持ち、軍隊秩序の維持が困難になっていたばかりか、反乱、逃亡という非常事態が起こる寸前になったいた。元来が食を求めて流浪していた流民軍であるために、食を保証するはずの宋義がその絶対の義務を怠ったということは、契約違反というにひとしかった。諸将は部下の不平をなだめるのに難渋していたところへ、項羽がひとり起ち、非常措置をとった。項羽の行動は、区々とした上下秩序を破壊したという点では背徳と言えるかも知れないが、そこは乱世であり、流民団に対して食を与えるという将としての最大の義務を基礎とすれば、項羽は宋義に代ってそれを保証したといえる
20200302
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