~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (九)
項羽が食糧を獲得するめあて・・・は、彼がさきに宋義に説いたとされる言辞を見れば、明瞭である。
士卒、芋菽うしゅく(いもやまめ)くらヒ、軍ニ見糧げんりょう(現在の食糧)無シ。・・・・兵ヲキテ河(黄河)ヲ渡リ、趙ノ食ニリ・・・・・
早く戦場へ行って趙の食糧を食おうではないか、という意味である。措辞そじはあらっぽいが、流民軍の当然の運動律のようなものであった。食のきた土地から食の満ちた土地へ流入してゆく。項羽が奇言を弄しているのではなかった。
宋義を斬った後の項羽は、趙の野にこそ食があるという事を全軍に明らかにした。これによって、士気はようやくもどり、人々は足を揚げた。北方の趙の野を目指して行く彼ら奮発心は、多くは飢餓から出ていたといっていい。
項羽は、馬上である。
公卿身分の上将軍であった宋義は華麗な車を使っていたが、項羽はそういうものを用いなかった。
最初の日、出発に当たって、宋義の車に油をかけて焼き捨てさせた。油とともに硬い材が燃える煙が、数里行って振り返っても、なお背後の空にあがり、雲を茶色くにじませていた。
項羽は、宋義のように、自分の権威をことさらに装飾しようとはしなかった。宋義は、旧楚の最高の貴族の子であったことを視覚的に人々に見せるために、軍旅の間も華麗な公卿の装束を用いたり、車をことさらに華やかにし、そのまわりに扈従こじゅうの車を多くつらねさせたりして、一見、王のような容儀を演出した。
宋義には彼なりに理屈があり、
── 楚人は、こうでなければ腹心しない。
と、かねがね側近に洩らしていた。
戦国の楚は、漢民族の住む華中や華北とくらべ、貴族崇拝の要素の強い社会であったことはすでに触れた。楚人は貴種に宗教的尊崇の観念を持ち、貴族が巫人シャーマンになる場合さえあった。
宋義が、
── 楚人はこうでなければ。
と、そういう押し出しで士卒の心をとらえようとしたのは、それなりに楚人の一面の気風を知っていたといえる。
が、項羽はそれを用いなかった。
項羽は、つねにありきたりの騎士のような軍装で馬上にゆられていた。
それだけで十分だったのは、ひとつには彼自身の肉体の雄偉さが、いかなる車駕や美服を用いるよりも、士卒の心を打ったからである。
項羽の躯幹くかんというのは、かつて呉中(蘇州)にいたころ、馬が立ち上がって歩いているほどに大きく、かつ肥って人々に異様の感じを持たせたが、戦闘を重ねるにつれ、大小の筋肉が薄いはがね・・・のように硬くしなやかないなり、馬上のわずかな身ごなしにも、金属が鳴るような律動を人々に感じさせるようになった。
(ただ惜しむらくは、智を用いるところが少ない)
と、范増はんぞうなどは叔父の項梁に比べてこの若者に不満を持っているが、項羽に言わせれば范増の智などはいたずらに瑣末さまつ的で、ときに老成者の暇つぶしのたね・・にすぎない、と思っている。今日の事態にあっては要は勝つか負けるかであり、剣をあげて天地を共に両断するだけの気力が必要なだけである。
── 智は大切なものだ。
項羽は、范増をからかうように言ったことがある。
── ただし智というのは事後処理に役立つだけで、勝敗そのものには役立つものではない、と頭から信じているようであった。
項羽のこの気力に対する信仰は、彼を教えた項梁から引き継いだものでないことは、項梁がむしろ智者のわずらわしさを持っていたことでも察せられる。項羽はどう仕様もなく項羽そのものであった。
項羽の武人としてのすべては天性というほかない。しかも彼のおもしろさは自分の天性に対し、他と比べてのひるみ・・・もうしろめたさも持たず、むしろ楚人一般が鬼神を信ずること甚だしいように、彼自身、ごく自然に自分の天性の中に鬼神を見ているということであった。見る以上の自然さでそてを信じ、あるいは信じていることすら気づかないほどに項羽が項羽として天地の間に存在しているというぐあいで、范増の人間分類の方法では、こういう人間をどうあつかっていいのか、いっそ人間の範疇はんちゅうの外に置くか、ともかく戸惑ってしまう。
(まあ、小僧なのだ)
范増はそのように自分に言いきかせて、項羽との接点をいて仮設している。
(わしが助けてやらねば、どう仕様もあるまい)
20200304
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