~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (十一)
項羽軍が黄河のほとりに達した時、寒気はいよいよつよくなった。河水は痩せ、黄色い河原が、古びた皮のようにひろがっており、いかにも冬の黄河らしい相貌だった。
(これが、黄河か)
と、項羽は丘の上に馬を立て、黄檗きはだの皮の煎じ汁のような水が、痩せながらも一種人格的な威容をもって流れて行くのを見続けた。
すでに黄河の線まで先遣されていた黥布げいふの部隊や将軍の部隊が、おびただしい数の舟を集め、全軍が一挙に渡河出来るように準備を整えていた。鉅鹿平野の様子はここに至ってくわかった。
えんだいせい、いずれの兵もみな殻をとざし息をひそめています。彼らは楚軍がわずか七万でしかないということも知っています。将軍が戦場に着かれても、彼らが力になりますかどうか」
と言ったのは、蒲将軍である。この人物はかつて項羽が淮水わいすい を渡った時に郷党の壮丁を率いて傘下さんかに入った。実直というほかに、さほどの能はない。
項羽はしばらく考えていたが、やがて、
「楚人にとって、楚人にみが力だ。このことをきもに銘じておけ」
と言い、さらには幕僚をかえりみて、この言葉を、とだけ言った。項羽の言葉はつねに短い。右の自分の言葉を全軍に伝えよ、という意味だった。
項羽軍は、一斉に渡河した。渡れば、鉅鹿の戦場まで三日の行程である。
項羽はいったん全軍を集結し、楚軍の兵の少なさをはじめて士卒たちに明かした。
このとき、項羽は河畔の丘上に旌旗せいきを林立させ、みずから丘の最高所に立った。
士卒に対し、まず言ったことは、
「生きて再びこの黄河を渡ろうと思うな」
ということであった。自分ももちろん死を覚悟した。その覚悟をあらわすために、舟という舟をみな沈めさせてしまった。さらに糧食については、鉅鹿城への片道三日分の兵糧を各個に持たせただけであった。趙に食を求めるという兵への約束を反故ほごにした。
次いで丘の上の項羽は、みずから炊事用のこしきを持ちあげ、地に投げて粉々に砕いた。さらに槌をふりあげ、かまをたたき割った。三日後には死者になるというのに、炊事道具は要らないということを衆に知らしめた。
兵たちは争って項羽の真似をした。七万人が一ツ行動をとって叩き壊しているうちに、激しい感情が、嵐が突き抜けてゆくように人々の心に吹きつづけて。楚人は中原ちゅうげんの人々とは異なり、感傷性が強い。こてら共通の行動をしているうちに共通の激しい感傷を生み、集団がひとる心になってしまった。
20200306
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