~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (十二)
このところ、華北の野に晴天が続いている。
鉅鹿の野は、地平線を見る限りにおいてはただ広漠とした黄土の大地だが、細かく見ると、地が気ままにおかをゆくったり、はげしくくぼんで地隙ちげきをつくったりして、変化が多い。
阜という阜に秦軍の塁があった。それらの塁には兵がそれぞれ万単位でたむろし、塁から塁へ甬道ようどうが走ってこれを結んでいる。
あたかも郊野全体が大要塞のていをなしていた。滑稽なことに、甬という線で結ばれた秦の要塞群の間に、燕や代、あるいは斉から来た派遣軍の塁が入り混じって点在した。しかも彼らは戦闘部隊めかしく、それぞれの旗を翻していた。
敵味方が同じ鉅鹿の天を戴いて雑居している観があったが、そこに戦闘がおこらなおのは、委縮しきった連合軍に対し、圧倒的な大兵をもつ秦軍が無視しきっているためであろう。
この郊野に、楚軍の一隊が現れたのは、彼らが黄河のほとりを発って三日後の朝であった。
黥布の先鋒隊三万である。項羽とsぽの主力軍に先立つこと一時間前で、秦軍や諸地方軍の塁からさかんに朝の炊事の煙があがっている時だった。
黥布は項羽に命ぜられたとおり、塁へは行かず、甬をめざした。項羽が単に勇のみの人間でなかったことは、黥布とその部隊に、甬の攻撃をもっぱらせせたことである。
章邯が築いた甬には、防護用の塁が付属している。しかし場所によっては付近に塁がなく、ただ甬のみが死んだ蛇のようにぶざまに横たわっているところもあった。黥布はそういう場所を目指し、主力を殺到させた。兵も土工も、あらゆる道具をふるって、それを破壊した。
数里(一里は約四〇五メートル)にわたって破壊した後、未破壊の甬にも石や巨木を放り込んで遮断し、それだけでなく、破壊個所を守るために楚軍の塁も急造した。秦軍にすればこれによって補給路に打撃を受けただけでなく、捨てておけば楚兵が甬をつたって秦軍の塁を押そうという襲うという危険性も生じた。
たちまち異変は秦軍の各塁に伝わった。
この方面の秦将は、蘇角そかくという鼻の大きな男であった。彼は章邯しょうかん幕下ばつかでも勇猛で知られた男だが、圧倒的に優勢な状況がつづいているために、やや警備と偵察を怠るところがあった。楚兵が、はるか南の方で黄河を渡り、北上しつつあるということを知ったのはやっと昨夜のことなのである。
(楚が来ても、なにほどのことがあろうか)
と、思った。蘇角の想像では、楚もまた他の地方勢力の派遣部隊と同様、野ねずみのような穴を作ってそこへもぐりこむつもりに相違なく、様子をしばらく見ているだけでいい、とたかを・・くくいっていた。朝になって、この郊野の一角に出現した楚兵が、到着するや否や、無謀にも全軍露出したまま、甬道を壊しにかかったことを知り、むしろ楚兵のために心配してやった。
荊蛮けいばん(楚人への蔑称)というのは、あわれなことに戦の理を知らない。全滅するだけのことではないか」
とつぶやき、現場付近の諸塁に出戦を命じた。このことは、結果としては兵力の逐次ちくじ投入になってしまった。
兵力の小出しの投入は、各個に敵に襲撃されるだけの結果になる。
このため、破戒工事中の黥布軍の前に最初に現れたの秦兵は、小部隊に過ぎなかった。黥布はいれずみ・・・・の入ったひたいをかぶとでおおうと、すぐさま土木道具を捨てさせ、秦軍に向かって一直線に突撃させた。秦軍は当初、軍容をお張っておどせば楚人が逃げると思っていたのが、思わぬ攻撃を受けたために数里しりぞいた。小規模な退却とはいえ、定陶ていとうで項梁を殺して以来、連戦連勝といっていい秦軍としては、最初の退却と言ってよかった。
黥布が、甬道をこわした箇所を、かりに破壊点と名づけておく。破壊点は秦軍の領域でも最も美馬実乃はしで、そのあたりに地隙が多く、大軍をもつ側にとっては、行動が不自由で、兵力の展開のきく戦場ではなかった。
ところが、そこが秦軍の痛点になってしまったのである。細い針で突いたほどの刺激にすぎなかったが、心理的な痛みが、秦の全軍にはしる結果になった。秦軍としては、この破壊点へ兵力を繰り出さざるを得ない。やがて遠方の塁にもつぎつぎに出戦を命じた。彼らは、戦場へは遠近の順によって到着する。その戦場たるや、地隙と地隙の間の狭い空間で行動するため、敵に対して一挙に大圧力をかけるというぐあいには行かない。当然、黥布軍にとって、幸いした。黥布軍の正面の敵は、つねに大軍ではなく、小部隊であった。ただ秦軍は兵の疲労を順次いやさせては新手あらてを繰り出すのに対し、黥布軍は小さな車輪が気ぜわしく旋回するように動きづめに動かねばならなかった。
敵を撃退すると、その場でたおれて荒い息をする兵がふえてきた。
黥布軍の動きが疲労のためににぶりはじめたころ、戦場の南端に項羽の主力軍が現れた。わずか四万にすぎなかったが、このことは秦軍ぜんたいの神経中枢に対し、痛みをはなはだしく感じさせた。この南部戦線の司令官である蘇角はみずから戦場に出るべく馬を駈けさせる一方、他の戦線の司令官である王離おうり渉間しょうかんにも急を報じ、応援を求めた。戦況から言えば、黥布が刺激した小さな痛点が、秦軍全体に対し、そこを主戦場として選ぶことを強いたのである。
20200306
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