~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
月傾きぬ (一)
誰が言いだしたのだろう。
「ひめみこの ひとみ はすみれ色だ」
と、幼い日からの彼女の美貌を、人々はそんな言い方で うわさ しあった。細いうなじを心持かしげるようにして、少女が相手をみつめる時、黒 がちのその瞳の奥に、ふとすみれ色の かげ がよぎるのだという。
「母君の 阿閉皇女 あへのひめみこ 黄金 きん に輝くたわわな山吹の花とすれば、ひめみこは?」
そこで人々は口をつぐんでしまう。
「さあ・・・・」
その美しさは花にたとえるにしては、 ろう たけすぎている。まだ十四歳しかならないというのに、ひめみこ 氷高 ひだか は、みつめられた者が思わず顔を伏せ、ひざまずきたくなるような・・・・そんな気品をそなえていた。
生れついての血筋の高貴の故にか?
そうかも知れない。氷高の父は、 草壁 くさかべ 壬申 じんしん いくさ 覇者 はしゃ 、天武を父に、そして現帝 持統 じとう を母に生れた皇子だ。そして、母の阿閉は天智天皇の皇女。が、すでにひめみこは父を失っている。彼女が十歳の時、父は二十八歳の若さでこの世を去った。母の阿閉は今三十三歳、太り じし の華やかな美貌の持主だ。女盛りの今、 きぬ の下にかくしもあえないほどの 胸乳 むなち のゆたかさも、背筋をまっすぐに伸ばしたゆるやかな歩み方も、夫を失った女の翳は感じられないが、その阿閉がふと顔をくもらせるのは、人々が、ひめみこの美貌について語る時である。さらに、
「あの美しいひめみこは、どのようなお方と結ばれるのでしょうか」
とでも言おうものなら、
「めっそうもない」
阿閉は、 禍々 まがまが しい言葉でも耳にしたように、むっちりした白い手を振る。
「そのようなことを言ってはなりませぬ、そして・・・・」
声を低める。
「かりにも、ひめみこの耳に、そのようなことを入れまいらせぬように」
人々は、なぜ阿閉が、その時に限って憂いを含んだ表情を見せるのかを知らない。
ひめみこ氷高には、弟と妹がいる。弟の かるの 皇子 みこ は三つ違い。蒼白い皮膚を持つ十一歳の少年は、ひよわなたちである。病弱だった 亡父 ちち の資質を受け継いだのかも知れない。
妹のひめみこ 吉備 きび はさらに三歳年下で、色も浅黒い活発な少女。父を失った時に幼すぎたせいか、かえって悲しみは彼女の上に翳を落とさなかったかにみえる。男の子にしてはおとなしすぎる軽に代わって、このひめみこが おとこ 皇子 みこ だったらという声も聞かれないではない。そんな噂には、微笑してうなずいてみせる母の阿閉であったが、侍女たちが、
「姉君とは違ったおかわいらしさで」
「大人になられたら、心ふかれる男たちがさぞや多くていらっしゃいましょう」
などと言おうものなら、たちまち眉根をひそめるのである。もっとも。当の氷高も吉備も、母の周囲のささやきなど、知りはしない。
2019/09/03
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