月傾きぬ (一) |
誰が言いだしたのだろう。
「ひめみこの
瞳
はすみれ色だ」
と、幼い日からの彼女の美貌を、人々はそんな言い方で
噂
うわさ
しあった。細いうなじを心持かしげるようにして、少女が相手をみつめる時、黒
眸
め
がちのその瞳の奥に、ふとすみれ色の
翳
かげ
がよぎるのだという。
「母君の
阿閉皇女
あへのひめみこ
を
黄金
きん
に輝くたわわな山吹の花とすれば、ひめみこは?」
そこで人々は口をつぐんでしまう。
「さあ・・・・」
その美しさは花にたとえるにしては、
﨟
ろう
たけすぎている。まだ十四歳しかならないというのに、ひめみこ
氷高
ひだか
は、みつめられた者が思わず顔を伏せ、ひざまずきたくなるような・・・・そんな気品をそなえていた。
生れついての血筋の高貴の故にか?
そうかも知れない。氷高の父は、
草壁
くさかべ
。
壬申
じんしん
の
戦
いくさ
の
覇者
はしゃ
、天武を父に、そして現帝
持統
じとう
を母に生れた皇子だ。そして、母の阿閉は天智天皇の皇女。が、すでにひめみこは父を失っている。彼女が十歳の時、父は二十八歳の若さでこの世を去った。母の阿閉は今三十三歳、太り
肉
じし
の華やかな美貌の持主だ。女盛りの今、
衣
きぬ
の下にかくしもあえないほどの
胸乳
むなち
のゆたかさも、背筋をまっすぐに伸ばしたゆるやかな歩み方も、夫を失った女の翳は感じられないが、その阿閉がふと顔をくもらせるのは、人々が、ひめみこの美貌について語る時である。さらに、
「あの美しいひめみこは、どのようなお方と結ばれるのでしょうか」
とでも言おうものなら、
「めっそうもない」
阿閉は、
禍々
まがまが
しい言葉でも耳にしたように、むっちりした白い手を振る。
「そのようなことを言ってはなりませぬ、そして・・・・」
声を低める。
「かりにも、ひめみこの耳に、そのようなことを入れまいらせぬように」
人々は、なぜ阿閉が、その時に限って憂いを含んだ表情を見せるのかを知らない。
ひめみこ氷高には、弟と妹がいる。弟の
軽
かるの
皇子
みこ
は三つ違い。蒼白い皮膚を持つ十一歳の少年は、ひよわなたちである。病弱だった
亡父
ちち
の資質を受け継いだのかも知れない。
妹のひめみこ
吉備
きび
はさらに三歳年下で、色も浅黒い活発な少女。父を失った時に幼すぎたせいか、かえって悲しみは彼女の上に翳を落とさなかったかにみえる。男の子にしてはおとなしすぎる軽に代わって、このひめみこが
男
おとこ
皇子
みこ
だったらという声も聞かれないではない。そんな噂には、微笑してうなずいてみせる母の阿閉であったが、侍女たちが、
「姉君とは違ったおかわいらしさで」
「大人になられたら、心ふかれる男たちがさぞや多くていらっしゃいましょう」
などと言おうものなら、たちまち眉根をひそめるのである。もっとも。当の氷高も吉備も、母の周囲のささやきなど、知りはしない。 |
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