~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
月傾きぬ (二)
目下の吉備の関心は乗馬にある。兄の軽が乗馬を習い始めた二年前、
「私も乗るの」
うまやから動こうともしなかった。
「ひめみこさまは、まだお早うございます」
侍女たちがなだめてもうすかしても、
「乗るの、どうしても乗るの」
頑として聴かず、ついに舎人とねりに馬の背に抱きあげられて馬場を一周し、やっと納得したという一幕がある。八歳の今は、自分用の若駒もきまって、むしろ兄より上手に跑足だくをうたせる。ときには、
「まあっ、およしなさいませ」
侍女たちが悲鳴をあげるほどの速さで馬場を駆け抜けてはらはらさせるが、伸びかけてきた黒髪をながびかせての疾走が吉備にはなによりも得意なのだ。
── なのに・・・・
彼女の不満は、こんなに巧みな乗り手であるおいてけぼりにして、兄が、大がかりな狩に行こうとしていることだ。
「私も連れて行って」
さんざんねだったが、
「お母様のお許しがないから」
と兄は言う。そして母も、
「今度はあなたはだめ」
と許してくれない。
「じゃ、いいわ。みかどにお願いしてみるから」
吉備は小さな口をとがらせて、一計を案じる。そしてこんな時、最も頼りになるのは、姉の氷高なのであった。
「ね、お姉さま、行きましょ」
帝というのは女帝持統。父草壁の母という意味では、お祖母ばあさまだが、同時に母の阿閉の異腹の姉である。年の違うこの異母いぼ姉妹きょうだいは、ほとんど全生涯をいっしょに過ごして来た。阿閉が草壁の妃となったのも、その親しさから、どちらが言いだしたということなく、最も望ましい形で結ばれたのであった。
こうしたきずなの強さだから、ひめみこたちはお祖母さまになついている。女帝はじつは、
深沈シンチントシテ大度タイドアリ」
と評され、寡黙冷静、その度胸のよさを恐れられている存在なのだが、彼女たち孫娘は、そんなことを知る由もない。ただし彼女たちの勘によれば、お祖母さまへのおねだりは、内裏だいりの正殿で政務についている間は禁物である。仕事が終わって、夕暮れにその北側の寝殿に帰ってくつろがれてから ── そこなら彼女たちの殿舎からも近いのだ。
玉石に軽い沓音くつおとをひびかせながら、手をとりあって、お祖母さまの寝殿のきざはしを上る。扉を押し、並み居る女官たちに、ちょと眼くばせをして、そっととばりすきからまぎれ込む。
「お祖母さま」
椅子いすにもたれていた黒い影が、燭のゆらめきの中でゆっくり振り返った。無口なお祖母さまは孫娘たちに、とりわけやさしい言葉はかけない。が、瞳にたたえられたやわらかな光が、その心のすべてを物語っている。
「お祖母さま・・・・」
吉備はおそれげもなく、そのひざにもたれかかるようにした。
その日のおねだりは、しかし残念ながら、功を奏さなかった。吉備が手をかえ品をかえて甘ったれたにもかかわらず、
「遠いところだから」
「今度は、ふつうの遊びではないから」
と、女帝は願をれてくれなかったのだ。それに頼みの綱なの姉の口添えも、思いなしか力が入っていなかった。吉備は自分よりも姉からのお願いの方が、お祖母さまにはききめがあることを知っている。なのに、姉は、今日に限って、自分のために、さそど熱心に祖母をくどいてくれなかった。たしかに透きとおるような声で、一、二度祖母に頼んではくれたけれど、駄目とわかると、
「さ、おいとましましょう」
むしろ吉備をうながして立たせようとした。
── つまんないの、
階を下りてから、吉備は、姉に肩をぶつけるようにして言った。
「もっとお願いしてくださればよかったのに、お姉さまの言うことなら、お祖母さまは何でも聞いて下さるじゃないの」
「ええ、でも、いまは・・・・」
姉の腕が、やさしく吉備の肩を抱いた。
「あまりお祖母さまを困らせちゃいけないわ」
「なぜ」
「お祖母さまはお疲れよ」
「あら、そうだったかしら」
「都うつりが近いから・・・・」
ここ飛鳥あすか浄御原宮きよみはらのみやから、さして遠くない藤原の地に、いま女帝は新都を建設中なのだ。そのほか、さまざまな重荷が、五十歳を迎えようとしている女帝の肩にのしかかっている。その実体は知らないながらも、氷高はそれを感じているらしい。すみれ色の翳をよぎらせる瞳は、思いのほかにものごとを深いところまで見透す力を持っているのだろうか。
2019/09/04
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