~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
月傾きぬ (三)
数日後、秋霧のたちこめる朝、軽皇子一行は狩に出発した。そのいでたちを見た時、さすがの吉備も、自分が同行が許されなかったわけを、納得したはずである。数十人の共人ともびとは、みな新しいよろいに身をかためていた。それぞれが弓をたずさえ、胡籙やなぐいにびっしり矢を並べての出発は、単なる遊狩以上のものものしさがあった。
「整列!」
「歩兵前へっ!」
「騎馬隊、進めっ」
号令とともに、黒々とした兵士たちの塊が無言で動き出し、霧の中に溶けていった。晩秋の遊狩行というよりも、むしろ、出陣に似た緊張がそこにはあった。その行列を見送りながら、氷高は一行が道を東にとって泊瀬はつせの山路を越えて行くことを知った。
「今夜は安騎野あきのにお宿りになるのです」
そう言ったのは、皇子の身辺に近侍するあがたの犬養いぬかいの美千代みちよであった。
「何やら天気が変わりそうでございます。今夜はこの分では冷えましょう。皇子みこ様のお体にさわらなければよろしいのでございますが」
軽が生れ落ちてからすぐかしずいている、乳母めのと、三千代が、まず気遣うのはそのことであった。
案の定、その日の霧はれず、そのまま時雨しぐれて、陰鬱いんうつな一日となった。三日の予定を終えて皇子の一行が帰る日、天気は回復したが、秋の気配は一気に拭われて、空はきびしい冬の群青ぐんじょう色に変わっていた。
「もうお帰りになってもよろしゅうございますのに」
三千代はその日はそわそわとして、何度も殿舎を出たり入ったりした。まるで五つ六つの幼児の帰りを案じるようなその有様に、侍女たちがしのび笑いをらすのに、三千代は気づいていない。
軽立ちが帰って来たのは昼下がり、野営のほこりにまみれて、甲姿の共人たちの顔は、出発の時よりさらに精悍せいかんに見えた。内裏の正殿の前に整列した彼らの中から、軽が進み出て階を上り、待ち受けていた女帝に、
「帰ってまいりました」
ほおを紅潮させて報告した。十一歳の少年には甲が重そうだったが、それでも日頃よりずっと凛々りりしげに見えた。彼にとっては最初の遠出の遊猟行であったためか、持統は特に正殿のひさし近くまで進んで、一同へねぎらいの言葉を与えた。
持統を囲んで、皇子や皇女たちをまじえた内輪の宴が催されたのは、その夜のことである。
正殿にすっくと立って、まるで閲兵するかのように共人たちを見渡した時の持統は、あたりを払う威厳に満ちた女帝であったが、寝殿で一族とともにある時、彼女の眼には、さすがにやさしい光が湛えられている。
「寒くはありませんでしたか、安騎野は」
寡黙な彼女にしては珍しく、自分の方から軽皇子に声をかけた。
「は、夕方から雪になりまして」
「ま、雪が・・・・」
一座に軽いどよめきが起こった。連なっているのは皇子の母の阿閉、そして姉妹の氷高と吉備。
持統のそばに侍するのは高市たけち皇子だが、彼は太政大臣だじょうだいじんとしてより、身内の一人としてその座にある。彼は天武の長子、持統の所生しょせいではないが、阿閉の同母の姉、御名部みなべ皇女を妻にしている。
その御名部も高市の隣で杯を含んでいる。持統も、阿閉も夫を失った今、彼女たち姉妹が最も頼りとする男性は高市である。彼が太政大臣として、皇太子に准じる形で持統を補佐しているのもこのためなのだ。高市と御名部の間には、長屋ながや鈴鹿すずかの二王子がいるが、今夜の席には連なっていない。
2019/09/04
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