~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
月傾きぬ (五)
ひととき、燭が暗くまたたくのを氷高は見た。一座の沈黙がいよいよ深まる中で、彼女は、今度の弟の旅が、単なる勝利への回想のためのものではなかったことに気づく。
大海人側の勝利はたしかに輝かしいものだった。が、その時未来を嘱望されていた少年草壁はもうこの世にいないのだ。
人麻呂の長歌は、軽皇子の、はじめての大がかりの遊猟を、彼らしい雄勁ゆうけいな叙景でうたいあげている。が、最後に、それが亡き父草壁の曾遊そうゆうの地であることに触れたとたん、彼もまた胸の中にあふれる思いをきかねて、一気に追憶の四首を詠まずにはいられなかったのではないか。
この安騎野に来てみれば、すべては草壁の思い出に連ならないものはない。つい四年前までは元気だった皇子草壁 ──。その思い出を語りはじめたとき、眠りにおちる者は、誰ひとりいなかった。何も知らない者にはただの荒野としか見えないこの野に来たのも、すべて過ごし日の思い出のためなのだ。そのことを語り明かしているうちに、すでに東には陽炎かげろうが立ちそめ、月は傾きかけていた。そしていよいよ、狩の時刻が来た。颯爽さっそうと馬上に人となった草壁をはじめ、人々が、馬を並べて狩に出たあの日、あのときが・・・・。
人麻呂は草壁の幻影を、朝霧の中に見出したのかも知れない。
── 東の野にかぎろひの立つ見えて・・・・
氷高はそっと胸の中で口ずさんでみた。
── かへり見すれば月傾きぬ。
一度口にしたら忘れられない歌だと思った。
── 月傾きぬ・・・・月傾きぬ・・・・
その時、眼の前にいる母が、白い手でゆっくりと顔をおおうのを見た。
── 二十で私を産み、そして九年後には、もうお母さまはお父さまを失ってしまわれたのだわ。
人麻呂の追憶よりも深い悲しみに堪えて、いま、母は生きている。戦いの勝利の後もその人生は決して平坦ではなかった。勝利と悲しみと、それぞれの追憶のために今度の安騎野行きは行われたのだ。
夜ふけて宴が終わって女帝の寝殿を出ると、暗がりの廊に、三千代が立っていた。
「皇子さまがお風邪を召していらっしゃるような気がしまして」
片時もそばを離れていると心配でならないらしい。
「お帰りになった時からお顔があからんでいらっしゃいました。大事なお体ののですから、ほんとうにお気をつけ遊ばさないと・・・・」
それで宴がすむまでそこに立って待っていたのだと言った。皇子の傍に駆け寄りながら、
「あ、そうそう」
手に持っていた小さな包みを氷高に渡した。
「これを、狩にお供した舎人とねりが」
「舎人が?」
「はい、さる方から皇女さまへと、お預かりしてまいりましたそうで・・・」
2019/09/05
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