~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
和 銅 元 年 (二)
「新しく鋳銭もはじめられると聞きましたが、これでわが国も独自の貨幣が生まれるわけですな」
ひとしきりその喜びを語ってから、
「ついては・・・・」
彼が切り出したのは、右大臣石上麻呂いしのかみまろの処遇についてであった。
「今度、正二位を与えられるのがいい機会しおだと思うのですが・・・・」
すでに麻呂は六十九歳、年に比して老いこみが甚だしく、右大臣の職を果たしかねている。正二位を与えられるのを花道として、現実の政治から離れさせたらどうか、と穂積は言ったのである。
「なにしろ只今は、左大臣がおりません。麻呂と私だけでは、複雑になって参りました政務を取りさばくのは至難のことで・・・・」
困惑しきった表情に偽りは感じられなかった。そのことは元明自身も感じている。老いた石上麻呂が新しい大宝律令に順応しきれないために、政務が渋滞していることは事実なのだ。
が、元明は、それに触れることをためらい続けて来た。後任の人事が問題だからである。麻呂に次ぐ位置にあるのは、大納言藤原不比等。彼を昇格させるのがまず順当だし、廟堂に支持者の多い不比等なら反対もないはずだ。しかし、それでは彼に一層権力を集中させることになりはしないか。彼の装う恭順のポーズに、元明は心を許していないのである。
さすがに穂積もそのあたりのことは察しがついているのだろう。
「ま、これはなかなかむずかしいことで」
と声を低くした。その夜二人の密談は長く続けられた。立場の微妙な穂積には、元明もうかつに手の内をさらけ出すことは出来ない。
「石上麻呂はたしかに老いました。でも、これまでの長年の労を思いますとね・・・・」
女らしい憐れみを武器に、元明は提案した。麻呂は引退させるよりも、むしろ左大臣に昇進させるべきではないか。その代わり右大臣を不比等に譲り、実務を担当させる。形の上だけでも麻呂が左大臣として坐っていれば、不比等の権力に歯止めをかけることになるだろうという意図を読み取ったかどうか、
「おやさしいお心づかいで・・・・」
穂積は小さく何度かうなずいた。
元明はここでさらに踏み込む。そのころ大納言の座に辿りついた大伴おおともの安麻呂やすまろについてである。大納言の定員は二人、しかし安麻呂は太宰帥だざいのそつとして筑紫にある。不比等を昇格させると、実質的には大納言は空席になってしまう。
「やはりこの際、安麻呂を呼び戻しましょう」
「といたしますと、帥は?」
「中納言の筆頭、粟田真人あわたのまびとはどうでしょうか。渡唐の経験もある事ですし」
大宰府は当時、唐や新羅との外交の窓口であった。
「適任でございますな」
「そのような計らいをお願いします」
「極力努力いたしましょう」
穂積が辞した後、元明はしばらく椅子いしに身をゆだねたまま、つことも出来なかった。今までにこやかに堪えられていた笑みが消えると、代って疲労の翳が俄かに深まった。
気心の知れた安麻呂を呼び戻して、麻呂と彼とで不比等を挟む形にする。一方、不比等の腹心とも言うべき粟田真人は遠く筑紫に飛ばして、少しでも不比等側の勢力をぐ。考えられる布石はそれくらいしかない。
が、果たして穂積の工作に期待できるかどうか。その能力も真意もつかめないだけに、不安は募るのである。
母の身を案じた氷高が、足音をしのばせて、遠慮がちに扉を叩いたのはその時だった。
「まだおやすみになりませんの」
ふりかえった母の眼の周りの深いくまに、彼女は気づいたはずである。が、母は無理にも微笑を浮かべようとしていた。
「そなたこそ・・・・私は寝まずにここにいることが、どうしてわかったの?」
「ただ、何となく・・・・」
氷高はぽつりと言った。
「自分でもふしぎなのですけれど、私、お母さまが、どこで何をしていらっしゃるか、わかるようになってきたのです」
瞳の底に、すみれ色の翳がちらと走ったようだった。同じ内廷でも氷高と母の殿舎は離れている。にもかかわらず、このごろ彼女は母の起居のすべてが感じ取れるようになってきているのだ。
体は離れていても、心は常に母にわせている、とでもいうべきなのか。長屋との恋を終わらせた彼女の、それは新しい出発なのだろうか。
「さ、そなたもお寝み。ちょっと訪ねて来た人がいたので、つい遅くなって」
椅子を離れた母が、そっと肩を抱くようにしたとき、氷高は言った。
「お客さまは、穂積さまですか?」
「ま、そなた、見ていたの?」
「いえ、ちょっとそんな気がしたのです」
夜明けが近いのか、どこかで鳥の声がしはじめていた。
 
2019/09/20
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