~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
和 銅 元 年 (三)
廟堂における穂積の工作は予期していたよりも順調に運んだ。
「すべては帝の仰せのとおりに内定いたしました」
元明がこういう報告を受けたのは、それから間もなくであった。様々な事情から、発令は三月ということになったが、
「ともあれ、お礼を申し上げたくて」
よろこびを隠し切れない様子で、不比等は早速元明の許へやって来た。
「帝の御計らい、終世忘れませぬ。このような御恩にあずかられるとは、夢にも思っておりませんでした」
目尻の下った細い眼は、ますます細くなった。
「この上は、ふつつかながら、帝のおんために命がけで働かせていただきます」
背中を丸めて深々とこうべを垂れた。
「石上麻呂も年ですから、よく助けてやってください」
元明の言葉にも、謙虚に首を振った。
「いえいえ、右大臣はまだ健在です。私などの及ぶところではございません」
しかし、日ならずして不比等は実力を発揮し始めた。石上麻呂が風邪をこじらせて病臥びょうがしたために、しぜんその代行をつとめるようになったのだが、その間に、滞ていた諸問題は、一挙に処理されてしまったのだ。まるで律令のすべての条項を頭にたたみこんでいるかのように、彼の指揮にはよどみがなかった。
元明の臨席した会議の席上で、不比等がやや緊張した面持ちで口を切ったのは、それから間もなくである。
「今回、事の処理にあたりまして、大きな発見を致しました」
「ほ、それはどのような」
穂積の問いに不比等は背を丸めたままうなずいた。
「政務の渋滞についてであります」
それだけ言って、一座を見廻した。
「これにつきましては、処理する側の不手際のように、私もかんがえておりましたが」
石上麻呂の名を挙げずに、やんわりと言い、
「問題はそのようなことではないことが、私自身その立場に立ってみて、よくわかりました」
「藤大納言よ」
口を挟んだのは元明である。
けいはしかし、みごとに懸案を解決したではないか」
「有難いお言葉でございます」
細い眼を一瞬輝かせてから、不比等は続ける。
「それは一時的なことでございます。根本的な事は解決されておりません」
「なぜに?」
誰かの小さな問いにおおかぶせるように不比等は野太い声を響かせた。
「都のあり方が間違っている」
周囲があっと息を呑むような断定的な言い方であった。そもそもこの藤原の都は、飛鳥あすか浄御原令きよみはらりょうに相応する作り方がなされている。が、すでにその規模を遥かに超えた大宝律令が整い、公布された今、藤原京はそれに対応出来なくなっている。
官制も変わった。役所の数も飛躍的に増加した。役人の数も増えた。それが狭い所にひしめきあっているから能率は低下し、政務は混乱するのである。
「これはもう救いがたい状態と言っていい」
不敵にそう言って人々を沈黙させたとき、下り眼は静かに、そして不気味な光り方をした。
「しかし卿よ」
元明の声が沈黙をった。
「この藤原京は、天武の帝の御遺志を受け継いで、持統の帝がはじめられたもの、文武の帝から今までまだ造営は続いています。その都をどうしようというのか」
俄かに不比等は表情を和らげた。
「は、左様でございますからこそ、私も困惑いたしておりますので・・・」
その日の会議はそれで打ち切られたが、考えてみれば、これは容易ならざる提案であった。
二度、三度、会議が続けられるうちに、元明は不比等の意図に気づく。
彼は単に官衙かんがの拡張、配置替えだけを望んでいるのではない。この藤原京そのものを否定しようとしているのだ!
── そうだったのね、不比等。
復讐ふくしゅうの構図はいまや明らかである。彼は壬申の戦以後、つまり天武以来の時代を地上からぎ取り、抹殺しようというのだ。
── そうはさせじ!
廟堂において、元明と不比等との死闘がはじまった。元明は孤立無援である。高官の多くは不比等派だ。頼みとする大伴安麻呂の帰京は正式にはまだ発令さていない。多数決で決まるしきたりでなかったその頃とは言え、不比等の遷都論をくつがえすのは至難のことだった。
「ここまで巨費を投じた都を立ち腐れにすることは出来ない」
元明がこう言えば、不比等は反論する。
「役に立たないものを維持する事こそ大浪費ではないか」
結局は大宝律令か藤原京か、法か都かという論争になってしまう。ここに及んで、元明は大宝律令撰定せんていに並々ならぬ情熱を傾けた不比等の意図を覚ったのである。
── あの時、持統の帝が、むきになって反対なさったのも、もっともだった。
しかし、その新体制を支持したのはほかならぬわが子、文武なのだ。その意をうけて発足し、ここまで出来上がってしまった体制を崩すことは、今となっては不可能に近い。思えば大宝律令制定に踏み切った時点から、元明たちの敗北は始まっていたのだった。
その思いに身をまれながらも、元明は敢然と戦った。最後には、
「嫌なものは嫌です」
女の非論理性を楯に頑張った。さすがの不比等も、
「それではやむを得ませぬな。私は何事も帝の思召おぼしめしに沿いたい、と思いますので」
遷都の提案を引っ込める素振りを見せたが、その時になって、元明には彼の真の意図がはっきり見えて来た。
── そうだ、あの男は、ずっと近江復帰を狙ってきたのだ。
天武以後の歴史を否定し、父鎌足が構想した近江の都に戻る事こそ、彼の念願ではないのか。
── そんなこと、絶対にさせるものですか。
唇をひきしめて会議に臨んだある日、彼女は思いがけない沈痛な表情の不比等と向き合うこtになった。
「帝、まことに申し上げにくいことでございますが」
その声もくぐもりがちだった。
2019/09/20
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