あ を に よ し (一) |
藤原京を北上した奈良の地、平城京へ ──。元明女帝にとってはかなり苦渋に満ちた決定であったにもかかわらっず、遷都と決まっると、宮廷の内外に、微妙な明るさが漂いはじめたのを、氷高は感じてる。
俄かにやさしさを帯びはじめた空の色のせいか。遥かな山脈やまなみの稜線が霞かすみに包まれるようになったからか。いや、そうではあるまい。
── 誰もが、今度の遷都決定にほっとしている。
氷高はそう思わざるを得ない。
そのために厖大ぼうだいな費用と労力を必要とするというのに、侍女の中には、氷高に向かって、
「ほっといたしました。じつは帝やひめみこさまの御身に禍わざわいがふりかかっては、と御案じ申し上げておりました」
口に出せなかったことを、やっと言えるようになった、というふうであった。
「新しい都は大吉相の地と承っております」
移り住む日を待ちかねている声が、潮のように湧わきあがりはじめている。
── この突然の変化は何なのか。こんなにも、藤原の地を人々は恐れていたのか。それに気づかなかったのは私だけなのか。
いや、そうではあるまい、巧妙な人心の操縦がどこかで行われ、知らず知らずのうちに自分たちだけが孤立させられてしまったのではないか。
唯一の救いは、人々が詔勅の意味を氷高のようには受け取らず、「平城の地は方角が良いのでそこに移ることにした」という決定を元明その人の意思だ、と思い込んでいる事だった。さすがに廟堂での不比等ふびとと元明の激しいやり取りまでは外部に洩もれてはいないらしい。それと知ってか、元明の態度に、微妙な変化があらわれた。
「皆のためによかれと思って決めました。そなたたちが喜んでくれるなら、私も嬉しい」
鷹揚おうような微笑を絶やさずそう言う元明の前に人々はひれ伏す。
「もったいないことでございます」
決心を定めた以上、それの向かってひたすら進もうとしている母の態度に、氷高はある潔いさぎよさを感じた。 |
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