~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
あ を に よ し (二)
三月、規定の方針通り、人事異動が発表された。石上麻呂いそのかみまろが左大臣に、藤原不比等が右大臣に、そして大納言大伴安麻呂おおとものやすまろろは太宰帥の兼任を解かれて帰京した。遷都を明後年と定め、建築計画が練られ、造営の責任者も決まった。直接造営に当たるのは、土木、建築の技術に長じた倭漢やまとのあや氏たちだが、もちろん真の総指揮官は不比等である。
奈良の新都は、藤原京の約三倍に拡張されるはずであった。以前から大和には南国に走る三つの古道がある。東側から順にかみみちなかつ道、しもつ道と呼ばれているが、藤原京はちょうど6この中つ道と下つ道の間の東西四里(現在の約二・一キロ)南北六里を京城としている(当時の測り方では一里は高麗尺の一五〇〇丈とされていた)
新都は、この藤原京をまっすぐ北上した奈良盆地の北辺に計画された。藤原京の西端を走る下つ道を辿り、この道を中心として、東西に四里ずつ京城をとると、それだけで、二倍の広さが得られる。南北も同様に倍に引き伸ばしたいところだが、丘陵などに遮られるので、これは一倍半にとどめることになった。
藤原京はこの京を南北十二条、東西八坊に区切ったが、新都は東西を同じく八坊とし、南北は北の二条、南の一条分を省いて九条とした。条坊の数は減じたが、一区割(坊)の大きさはずっとひろがっている。
計画が示された時、高官たちは驚嘆した。
「そんなに広い所があるのですか。三倍も広い都が造れるとはすばらしい」
「下つ道をまっすぐ北に辿って、その左右に京城をとるのですな。下つ道がそのまま中央の大路になるとはうまい計画だ」
新都と藤原京の比較図を示されると、いよいよわかりやすくなった。都の中心を走る大路をうけとめる形で宮域があるのもよく似ている。
「とすれば、藤原京にじゅんじて、それぞれの建物の位置を決めればよろしいわけですな」
声に応じて不比等はうなうく。
「左様、たとえば左京十条四坊の大官大寺だいかんだいじ、右京八条三坊の薬師寺は、ほぼその位置に遷します。ただし、新都は九条ですので、多少の変更は止むを得ませんが」
細い下がり眼がちらりと元明を見る。
── あの日の仰せ、わすれてはおりませぬ。
というふうに。元明もさりげなく不比等をみつめる。もっとも藤原京をはずれる川原寺、橘寺はそのまま飛鳥故京にとどめる事になった。ただし、飛鳥寺は、大仏や伽藍がらんはそのまま故地に留め、寺籍のみ移して、新都の適当な位置に新たに建立こんりゅうする。飛鳥寺は法興寺ほうこうじとも呼ばれ、曽我氏の宗家である馬子うまこが建立し、後に官寺として手厚い保護を加えられてきた寺だから無視するわけにはゆかなかった。
その代わり、山田寺は、蘇我倉山田くらやまだ石川麻呂いしかわまろ系の寺ではあるが、私的な寺だというので移転は見合わされた。元明は初め難色をしめしたが、それよりもまず移転すべき寺があるので、山田寺については譲歩せざるを得なかったのだ。
移転を必要とする寺の一つは大官大寺だいかんだいじである。これは不比等も無条件に認めている。さきに百済くだら大寺、ついで天武天皇によって高市たけち郡に還されてその名も高市大寺と呼ばれたこの寺は、藤原京造営とともに、左京十条四坊に建立された。文字通りの官の大寺で、いわば天武追憶のシンボルである。規模が大きいだけに、まだ完成に達していないこ寺について、不比等は、
「飛鳥寺と同じく、新都にふさわしく、大唐の様式を取り入れた寺を新に建てる方がよろしいのでは」
と提案したが、元明はこのままの移転を強く主張した。それは、薬師寺の移建もかかわってくることだからである。
不比等はさきに、薬師寺は伽藍も仏像もそっくり移転させることを元明に誓っている。その約束を実行させるためにも、大官大寺の移建に元明は固執した。なし崩しに新規建立の事実を押しつけられることを警戒したのだ。
こんな時、元明の眼は強い光を帯びる。
── 不比等、約束を破りはしないでしょうね。
── 心得ております。
両者の間に無言の火花が散る。
寺の問題一つでもこのとおりで、遷都に伴う問題は山積している。元明は精力的に一つ一つの難問を解決していった。
彼女はいつも堂々として、ひるんだところを見せなかった。事が決まった以上、先頭に立って指揮するのが王者の任務であると思い定めているかのようだった。
2019/09/21
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