~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
あ を に よ し (三)
和銅三年三月、遷都の時は来た。
新しい都 ── 平城京と名づけられたその地の建設は、まだ完了したわけではない。新宮内の諸殿、官衙かんがも、どうやら日常に支障を来さない程度の仕上がりである。例の大官大寺や薬師寺の移転計画は白紙の状態だ。
しかし、藤原京の木材や瓦を運びながらの新都建設だから、ある程度建物が移されてしまうと、藤原京自体の機能は低下させざるを得ない。それに、何よりも、早く凶相の地を離れたいという人々の思いに促されて、
「諸寺の移建はいずれのことにして」
と、元明たちと、政府機関の移転が、まず行われることになったのである。
遷都の日として選ばれたのは三月十日。その数日前、氷高は、数人の侍女を連れて、山田寺えお薬師寺にもうでた。
山田寺では、突然の来訪に急いで金堂に御灯みあかしともしわたそうとする僧たちを、氷高は強いて止めた。
「御仏前の御灯だけでけっこうです」
まだ昼下がり、境内の春の陽はまぶしすぎるほどなのだ。押し開かれた扉から射し込んで来る光が、壁を埋める黄金の塼仏せんぶつをやわらかく浮出させる。その静かな、淡い黄金の世界は氷高の心に安らぎを与えてくれる。丈六じょうろくの仏の前に手をあわせた時、母や長屋王ともにここに詣でた日のことが、ふと胸によみがえって来た。
── あれは、長屋王の父君、高市皇子の御病の平癒を祈りに来たのだった。
あれから何度となくこの寺に詣でているのに、今日、その日のことがわざやかに思い出されるのはなぜなのか。
氷高はすでに三十一歳、思えばあれから十余年の歳月が流れている。あの日、彼女はこの像のおおきさにうたれ、心のおののきに耐え切れずに堂を抜け出したのだった。
「自分の心に翳のある時、あの仏像の顔はまぶしすぎるのさ」
肩に手を置いてそう言ってくれた長屋もまだ若かった。不思議な魂の一致を感じさせた彼は、今は妹の夫である。歳月はいつか二人の運命を大きく引き離してしまった。
氷高はもう一度巨像をみつめなおした。永遠の世界に向けられた、さわやかな切れ長の瞳。唇許くちもとにわずかに漂う不可思議な微笑・・・・十余年前と全く変わらないその面差の前で、しかし、もう彼女はやじろぎはしない。
── そうなのだ。藤原京であろうと、平城京であろうと、永遠を見つめる御仏の眼には、何程の差はないのだ。遠く離れ、この御堂にぬかずくことが出来なくなっても、この御眼差しは、私たちを支えて下さる。
堂を出て、回廊を歩みながら、氷高はふと立ち止まって塔を見あげた。
── このあたりだったかしら。お母さまが塔を見あげていらっしゃったのは・・・・。
ここから塔を見るのが一番好きだ、と母は言った。曾祖父、倉山田石川麻呂の非業の死の真相を、はっきり知らされたのもその時だ。
肉親の相剋、信と不信の間を生き続けて来た母や持統を、あの時よりもずっと深く理解出来るようになっている、と氷高は思った。十余年の歳月は、いつとはなしに彼女を変えたのだ。
薬師寺に着いたとき、陽はやや西に傾きはじめていた。金堂、講堂、そして高くそびえる塔 ──。華やかな裾階もこしをつけたそれらの建物は、山田寺の伽藍より流麗で軽やかな感じを与える。この寺が新都に移建されると聞いたとき、氷高は、この塔が、金堂が、そのまま宙を飛んでゆくかのような幻想に捉えられたものだった。
が、光り輝く薬師三尊の前にぬかずいたとき、
── この御仏たちに、ほんとうに新しい都でめぐりあえるのだろうか?
不安が胸をかすめた。まだ移建の計画も具体化していないというし、がっしり大地に根を下ろしたようにさえ見えるこれらの仏像を遠く平城京まで運ぶのは不可能なような気がした。そう思った時、台座にかがまる鬼神たちに奇妙な親しみが感じられたのはどうしたことか。醜怪でなじみにくかったこの異形いぎょうの者たちに、氷高は声をかけてやりたかった。
── お別れね、そなたたち。
異形の者たちは歯をむき出して笑っている。
── そうですとも。
と言っているようにも見え、また、
── いいや、またお目にかかれますよ。
と言っているようにも見えた。
2019/09/22
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