~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
あ を に よ し (四)
三月十日、遷都の日は晴れていた。元明の輿こしを中心に、車駕しゃがはゆるやかに中つ道を北上した。母に従う輿に乗った氷高には、遠ざかって行く藤原京の風物は見えない。
── いや、かえってその方がいいのかも知れない。
氷高は眼を閉じた。住みなれた殿舎の屋根が小さくなり、やがて周囲の緑の中に沈んでしまうのをみつめ続けながら去って行くのはむしろ心が重い。
輿に従う侍女たちは氷高の心も知らず、都遷りを声を弾ませて語っている。新宮殿のこと、その中に与えられる自分たちの殿舎 ──。もう半年も前から飽きずにくりかえしてきたことが、いよいよ現実のものとなる興奮を抑えかねているようだった。
そして、母げ元明はといえば ──。
出発にあたって、旧都の留守を預かる老いたる左大臣、石上麻呂に、
大臣おとど、しっかり留守を守ってください」
やさしく念を押し、新都への期待に胸をふくらませている侍女たちに、豊かな笑顔を見せて、輿の中に消えたのだった。出発前の数日はほとんど一睡もしないほどの忙しさだったにもかかわらず、元明の頬にその翳はなかった。
一行は日暮れ前に長屋原ながやのはら い着いた。藤原京と平城京のちょうど中間点といっていい此処に一泊することになっている。さる豪族の邸が元明の宿所にあてられていて、氷高はその庭続きの小亭が用意されてあった。
庭に出ると、暮れなずむ西の空を区切って、葛城、金剛の山脈やまなみが薄墨色に横たわっている。その姿は、飛鳥や藤原の京で眺めたのとさほど違っていないように思われた。
夕餉ゆうげを済ませて、氷高は元明の許を訪れた。五十歳の母の疲れを気づかってのことである。中年の侍女は氷高に一礼すると、
「まだおやすみではいらっしゃいませんが、しばらく一人でいたいと仰せられて」
とささやいて、奥の扉をさし示した。近づいて来意を告げると、
「お入り」
静かな母の声がした。
「お疲れではないかと存じまして」
うなずきながら、
「疲れています」
ゆっくりと母は言った。
「ま、それは・・・お輿に乗り続けていらっしゃいましたから」
「いいえ」
「は?」
「輿のせいではありません」
「・・・・」
「私はもう疲れたのです」
ゆっくりと声を低めてくりかえした。
「戦いに疲れたのです」
ぎょっとする氷高に、元明は卓上の小さな紙片を示した。
「これを・・・」
紙片にはこうあった。
飛鳥とぶとりの 明日香能あすかの里乎さとを 置而おきて伊奈婆いなば 君之きみが当者あたりは 不所見香聞安良武みえずかもあらむ
氷高が紙片を見つめている間、元明は卓にひじを突き、ふくよかな手で顔を被っていた。
── 君があたりは見えずかもあらむ。
口の中でくり返しながら、
── お父さまのことだわ。
心を震わせながら氷高は思った。飛鳥の真弓の丘には、若くして逝った父草壁のみささぎがある。
いや、陵だけではない。飛鳥には母が父と過ごした島の宮をはじめ、二人の思い出があちこちにある。藤原京に居れば、その思い出の地を常に訪れることが出来たし、よし訪れなくとも、それは手の届くところにあった。が、平城京に遷れば、思い出の地は、あまりにも遥かなものになってしまう・・・・。
── お母さまのお胸には、今もお父さまとの思い出があふれておいでなのだわ。
堂々と、そしててきぱきと遷都の計画を推進しているかに見えた母の、人にはあかせなかった胸のうちのぞき込んだような気がして、
「お母さま」
思わず膝にすがろうとした時、女帝は指を顔から離して呟いた。
けたのです、私は」
「え?」
聞き返したとき、むしろその答えは冷静な響きを含んでいた。
「あからさまな敗北です」
「・・・・」
「私たちの飛鳥の地を、藤原京を、守り通すことが出来なかったのですから」
「・・・・」
「私の力が足りなかったのです」
「でも、お母さま」
辛うじて氷高は口を挟んだ。
「お負けになったというよりも、御自分で、はっきり決心をおつけになったのではありませんか」
「・・・・」
「はじめはお気に染まなかったかも知れません。でも、心をお決めになってからのお母さまは、むしろ潔くていらっしゃると・・・・」
「そなたも、そう見えましたか」
ほとんど表情を動かさずにそう言ってから、女帝の瞳は、ゆっくり氷高に向けられた。やがて口から洩れた言葉は、むしろ呟きに近かった。
「それ以外に、どんな手があるでしょう」
次の瞬間にやって来た沈黙に、氷高は支えきれないほどの重みを感じた。
2019/09/22
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