~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
秋 霧 (一)
大官大寺を包んだ猛火がいかにすざましいものであったか、日を追って詳細が伝えられるに従って、氷高の疑念は、今や確信に近いものになっている。
「まったく一瞬のうちに、諸伽藍がらんが燃え上がりまして、手のつけようもございませんでした」
旧藤原京からの使いはこう言ったのだ。
「では、金堂も塔も?・・・・」
「はい、一堂宇も残さず」
そのようなことがあってよいものだろうか。広大な寺域に大屋根のうねりを見せて建っていた金堂も、空に聳える九重の塔も、一度に焼け落ちてしまうなんて・・・・。紅蓮ぐれんの炎に包まれた堂宇のほとりを、影絵のように駆け抜ける何人かの人影が、氷高の眼裏まうらに浮かぶのだ。
── け火だ。それに決まっている。伽藍をそのまま移建させるという不比等の言葉は口約束に過ぎなかったのだ・・・・。
天武帝の記憶に連なり、藤原京のシンボルの一つでもあったあの大寺を、不比等は、はじめから新都に移す気はなかったのだ。元明女帝を藤原京から引き離した上で、かの地に終止符を打つための、これは予定の行動だったのではないか。火は付近にも燃え広がったと言うが、幸い離れている薬師寺には何の被害もなかったようだ。
が、氷高はそのことに胸をで下ろす気にはなれない。炎の後から、眉の薄い、下がり眼の不比等の薄気味悪い笑顔が浮かんでくるからだ。もっとも、現実の不比等は、大官大寺焼失の報が伝わると、元明女帝の許に、沈痛な面持ちでやって来た。
「まことに無念のいたりでございます。すぐにも移転にかかりたいと思っておりました矢先でございましたのに」
深く一礼し、
「留守を預かる石上いそのかみの大臣おとどの手落ちと申すよりほかございませんが、なにとぞ、深くお責め遊ばしませんように。なにしろ老齢のことでございますから」
と行届いた配慮めいたものをつけ加えた。堂宇そのものが焼失してしまった以上、元明もうなずくほかはない。
「そのかわり、これに代わるものをこちらで新たに造らせようと存じます。都の中の、ほぼ同じ位置に」
が、新築再建で事がすむという問題ではないはずだ。天武の記念碑モニュメントの焼失という事実は拭いきれるものではないだろう。
── 復讐だわ、壬申じんしんの戦への復讐だわ。
不比等が殊勝げに、新都内に大官大寺再建の土地選定を急いでいると聞いても、氷高の心の中のわだかまりは長く消えなかった。
── この次は、薬師寺だわ、あの薬師寺も焼いてしまうつもりなのだわ。
炎に包まれる堂塔、黄金の仏たち、そして台座の鬼神たちが身もだえするのが見えるような気がした。そんな日が続いたある日、遂に、
── こうしてはいられない
氷高は胸をきあげてくる思いに耐えられなくなった。
── 言って見なくては。
誰にも告げず、装いも変え、身分を秘して行ってみよう。旧都には顔見知りの侍女が何人かは残っている。年老いて、新都へ移るのを諦め、そのままかの地に住みついているそういう連中にひそかに意を含め、寺の付近に住む庶民に金品を与えて警護を頼もう。
秋の昼下がり、なにげなく、新都を見て廻るようなふりをして出よう。そうそう、佐保路さほじやしきを構えた長屋と吉備を訪ねるということにすれば怪しまれまい。衣装は途中でなるべく目立たないものに脱ぎかえるとして・・・・。
2019/09/23
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