~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
秋 霧 (二)
決心がつくと氷高はすばやかった。
うまやから乗りれた四歳駒の鹿毛かげを曳き出させ、供はいらないからと、慌てる侍女たちを振り切った。
「吉備の君の所へ行くのですもの、大丈夫。子供たちに久しぶりに会ってやりたいの」
そういった以上、内廷を出たら一応佐保路を辿ってみせねばならない。
鹿毛の跑足だくは軽かった。平城京の東方にある殿舎は東の宮とも東院とも呼ばれて、いま、文武の忘れ形見のおびとはそこで県犬養三千代にかしずかてている。その東宮の隣には広大な不比等の邸がある。宮中の殿舎に見まがうばかりの豪奢な邸宅で、門ひとつを隔てたこの邸との間を、美千代は幼い首を抱いて自在に往き来している。不比等の邸はあたかも首のための別邸のようでもある。
先夫美努みぬ王が世を去り、今や公然と不比等の妻となっている彼女は、一方、元明の女官でもあり、宮廷と不比等の邸との往復に忙しい。美千代の本来の邸は別にあって、そこは先夫との間の葛城かずらぎ王、佐為さい王、牟漏むろ王女がいるのだが、すでに葛城王は成人しているし、その下の子供たちも、そのころの習慣に従って、それぞれの乳母めのとが養育に当たっている。ただ不比等との間に生まれた安宿媛すかひめだけは、母にまつわりついて不比等の邸におり、同い年の首のよき遊び相手にもなっている。すでにここから吉備の邸は近い。
もちろんはじめから立ち寄るつもりのなかった氷高であったが、不比等の邸を通り過ぎたあたりで、
「ひめみこ」
聞きなれた声が後ろから響いた。
振り返ると、長屋王が馬を近づけて来た。あたりにはかなり気を配って、誰からもつけ・・られていないつもりだったのに、降って沸いたような長屋の出現に、思わずぎょっとしたが、顔をそむけるには遅すぎた。
「わが家へいらっしゃるのですね」
長屋はそう決め込んでいる。
「ええ・・・」
歯切れの悪い答え方になったが、こうなれば、長屋や吉備に打ち明けてしまった方がいいかも知れないと、とっさに判断した。
氷高の心の中を知る由もない長屋は微笑を浮かべている。
「それはよかった。吉備が喜びます。何しろこのところ忙しくて話し相手もしてやれないので退屈していますから」
彼は平城遷都の直後、式部卿しきぶきょうに転じた。文官の人事、考課、及び、官人養成の機関である大学寮を統括する役所の長官である。人事の中枢に関与する要職であり、かつ学識も深くなければつとまらない。すでに詩才の聞えも高く、遷都に当たって宮内卿として活躍し、その手腕を買われている長屋にはうってつけの地位ではあったが、それだけに、その忙しさは想像がつく。
そういえば、内廷に姿を見せることも次第に少なくなっていた長屋であった。
「今日も、また夕方出かけねばなりません。ゆっくりなさってください」
「いいえ、そうは出来ませんの」
すみれ色の翳を瞳の底によぎらせて、氷高は軽く長屋を見やった。
「どうしてです?」
「私、藤原の故京こきょうへ行くのです」
「何ですって?」
長屋は、一瞬、馬の歩みを止めた。
2019/09/23
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