~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
秋 霧 (三)
長屋王の佐保の邸には広い池がある。みぎわに枝を垂れた白萩がひそやかに揺れるのに応えるように、池の面を小波さざなみが渡る。盛りを過ぎかけた白い花が、もし一つでも水の上に落ちでもしたらその音が聞えそうなほど静寂なのは、池に面した小亭に鼎座ていざする三人の間に、思いがけない重苦しい沈黙があるからだ。
氷高が計画を口にしたとき、長屋は驚きを隠さなかった。
「今から、藤原も京へ?」
まじまじと氷高を見つめて言った。
「日が暮れてしまいますよ、途中で」
「ええ、かまいません。泊まります、長屋原ながやのはらあたりで」
去年の春、藤原京から還って来たときもそうしたではないか。
「でも、一人では危ない」
「大丈夫、あの鹿毛は脚が速いのですもの」
それなり長屋は黙り込んでしまった。氷高は、長屋たちに計画を打ち明けてしまったことを少し後悔しはじめていた。
── そんなに危険なことだろうか?
いいや、そんなことはないはずだ。飛鳥への道に通じるかみみち なかつ道、しもつ道は古来の官道だし、道沿いに民家も多いのだ。
なのに長屋は眼を逸らせて黙っている。より不思議なのは吉備だ。勝気で思ったことはぱっとやてしまう彼女の沈黙はむしろ不自然ささえ感じられた。もしも吉備が自分の立場にいたら、一も二もなく、藤原の故京へ走るだろうに・・・・。
何度か白萩が揺れ、何度か小波が池の面を渡ってから、やっと長屋は口を開いた。
「おやめになった方がいいと思います」
「でも、このままにしておいたら、薬師寺も焼かれてしまいます」
「いや、そのようなことは・・・・」
「でも、げんに大官大寺は焼けてしまったのですよ。天武の帝の御発願ほつがんになられたあの大きな御寺みてらが」
「・・・・」
「それもあっという間のことだと聞きました。不始末の出火とは思えません。誰かが工作したとはお考えにならないのですか」
「・・・・」
天武は長屋にとっては祖父ではないか。その祖父の象徴ともいうべき大官大寺の焼失を惜しまないというのか・・・・。と、思ったその時、長屋の瞳が、ゆっくり氷高に向けられた。
「焼けてしまった以上仕方がないと思います。新しくこしらえて建てればよろしいではありませんか」
氷高は絶句した。
思いがけない返事だった。瞬間、それまで掴みかねていた沈黙の底にあるものに、ふと触れたような気がした。
── そうだ。反対と沈黙は、私の身を気づかうためためばかりではなかったのだわ。
予想もしなかった自分と長屋の間の距離に、氷高はたじろぎながらも首を振った。
「そうではありまあせん。新しく建てたって、元へは戻りませんわ。私たちは天武の帝の御しるしそのものを、ここへ遷すべきだったのです」
同意を求めるように吉備の顔を見つめた時、氷高は、思わずわが眼を疑った。
何という暗い眼をしているのだろう。日頃の彼女なら、
「そうよ、お姉さまのおっしゃるとおりよ」
たちまち弾んだ声が戻って来るはずなのに、いったい妹は私の話を聞いているのだろうか。むしろ私の声が聞こえなければいいといったようなふうにさえ見えるではないか。
「ま、とにかく、今日のところはお止まりください。薬師寺の警備については、私からも厳重に申しつけます」
長屋はもの静かになだめる口調になった。一年余りの式部卿としての経験は、彼の人物をひと廻りもふた廻りも大きくしたようである。政治の中枢に近づきつつある彼は、この際どういう手を打つべきかを直ちに思い巡らすことが出来たらしい。
「それなら、早い方がいい」
座をちかけた彼に、はじめて吉備は声をかけた。
「じゃ、またお出かけになるの」
「うむ、ちょっと忘れていたこともあるので」
ゆっくりうなずいてから、
「姉君をよくおもてなしして」
さらに氷高に向かって恭しく一礼した。
「どうか、ごゆっくりなさってください」
廊の端まで夫を送って戻って来た吉備は、倒れるように椅子いしに身を投げ出すと、顔を蔽った。
事の異常さに氷高が改めて気づいたのは、この時である。
「ま、どうしたの」
駆け寄って妹の肩を抱いた。
「お姉さま、もう駄目、私・・・」
吉備は切れ切れに言った。
「どういうことなの、わけを話して」
氷高の問いに、吉備は首を振る。
「おわかりでしょ」
「え?」
「あの方、変わってしまったの」
言いながら、吉備は指を顔から離した。その眼は、池の面に向けられていたが、暗くうつろだった。勝気な妹の、これほどうちひしがれた姿を氷高はかつてみたことがなかった。
「変わった? あの方が」
「ええ、お姉さま、お気づきにならなかった?
「ええ、そう言えば・・・」
大官大寺について語ったよそよそしさは、たしかに今までの長屋には考えられない事だった。吉備は眼顔でうなずきながら問いかけてきた。
「それがなぜだか、おわかりになる?」
「・・・」
笑いというには不気味な、ほうけたような表情が吉備の頬をよぎった。そして、一語一語を区切るようにして彼女は言った。
「あの男よ」
「あの男?」
「藤原不比等」
「不比等?」
「そう、不比等の娘が、あの方をとりこにしてしまっているの」
2019/09/24
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