~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
秋 霧 (四)
藤原長娥子ながこ ──。
それが、その女の名前だという。
その名はおろか、そんな娘のいることすら氷高は知らなかった。
「じゃあ、宮子の妹?」
母親が誰かということは吉備も知らないという。当時のしきたりとして、男が幾人かの女の許に通う事は普通だったし、そこで生まれた子供たちは、それぞれの母親の許で育てられる。長娥子もそうした一人だったが、なぜか不比等は平城京に移ったころに彼女を手許に引き取り、式部卿となって不比等の邸を訪れる事の多くなった長屋に引き合わせたのだと言う。
氷高の眼の前をさまざまの光景が走り抜ける。長屋原の一夜、不比等が見せた彼に対する手放しの称賛。そして間を置かずに行われた式部卿への栄転 ──。すでにあの頃から不比等のおそるべき構図は胸に描かれていたのか。
宮子が正常な生活に耐えられない人間となった今、不比等は、その代わりを長娥子にととめさせるつもりなのではんかろうか。文武の死後、天武系の血を引き、かつ蘇我倉山田石川麻呂系の母を持つ長屋は、もしかしたら皇位に最も近い所にいる存在かもしれない。それを自分の陣営に引き込むために、長娥子は格好の誘い水だった。
── 不比等の邸の前を過ぎたあたりで、長屋が姿を現したのも、そういうことだったのか。
氷高はひそかにうなずく。
「なのにお姉さまは、あの方の前で、あんなことを言っておしまいになったのよ。大官大寺は放け火だ、薬師寺も焼かれるだろうなんて・・・・」
気を取り直したらしい吉備は、激しく姉をなじった。氷高は色蒼ざめる思いでその言葉を聞く。
「だって、よもや、あの方が・・・」
「言い訳は遅いわ」
「・・・・」
「今ごろあの方は、不比等の所で、みんなしゃべってしまっているわ。そして、今夜も・・・。あの方はここへはお戻りにはならないわ」
再び吉備は顔を蔽った。誇り高い彼女には耐えられない屈辱に違いなかった。
そのきれいな細い指を眺めながら、氷高は同じ光景を思い出している。
── 去年の春、お母さまはこうして顔を蔽っていらっしゃった。
あからさまな敗北 ──。
そうだ、そうはっきり認めざるを得ない。母は政治に、そして妹は愛に敗れたのだ。いずれも不比等というしたたかな男を相手にして・・・・・
── 私たちには、もう、敗北の道しか残されていないのか。
またも池の汀の白萩が揺れ、枝垂れた花房はみずからの重みに耐えかねたように、白い小さな花を池の面に散らした。陽が傾き急に小暗くなった池の面に秋霧あきぎりが立ちはじめ、白い花はやがて霧に包まれた。
── もし、この屋敷に寄らずに、あの鹿毛を走らせていたら、どこまで行ったろう。
そう思った時、吉備の声が響いた。
「あの方、やはりお姉さまと御一緒になればよかったのよ」
針の含んだ言い方だった。顔をまともに向けた彼女は泣いていなかった。
「そうすれば、そうすれば、あの方は ──」
声が途切れた時、氷高は、
「いいえ、違うわ」
思わずそう叫んでいた。
妹の言いたかったことが痛いほどわかった。もし、長屋が氷高と結ばれていたら、長娥子に眼を向けることはなかったかも知れない。しょせん、氷高の身代わりに過ぎない私が、こうした運命におかれることは当然なのだ・・・。いや、かりに、長屋があなたと結ばれても、同じ様な裏切りを犯したとしたら、この苦しみを受けるのは、私でなくて、あなたなのだ・・・・。
「いいえ、そういうことではないのよ、吉備」
自分でも驚くほどの強い口調で、氷高は言いきっていた。
「さあ、お母さまのことを考えてみるのよ」
顔を蔽った母の姿を思い浮かべながら、言葉を続けた。
「お母さまのお母さま、姪娘めいのいらつめさまは、天智の帝のきさきになられたわね。まだ帝が、中大兄なかのおおえ皇子と呼ばれておいでのころに」
「ええ」
「姪娘さまは、蘇我倉山田石川麻呂さまの御娘。その倉山田石川麻呂さまを無実の罪に陥されたのは誰?」
「倉山田石川麻呂さまの御兄弟と、藤原鎌足と、そして・・・」
「そう、そして、中大兄皇子さま、私たちのお祖父さまです。そのことを私は、はっきりお母さまから伺っています」
「姪娘さまは、そうした中大兄さまと生涯を共にされたのね」
「そう、そういうすざまじい不信の中で、蘇我の血をうけた娘たちは生きて来たのよ」
考えてみれば、母の元明は、祖父を裏切った人を父として生きて来ているではないか。
2019/09/24
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