~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
げん かん (一)
不比等の邸は、このところいよいよ豪奢な趣を加えてきた。広大な敷地の中に、木の香の匂う殿舎が次々に建てられているのに、それでもまだ足りないというのか、毎日のように、二抱えもありそうな巨木が運び込まれている。
かと思うと、修羅しゅらに載せられた大きな黒ずんだ石塊が、数十人の男たちにかれて門をくぐる。粒のそろ玉石たまいしあふれんばかりに積んだ手押し車を、足を踏んばり、ほこりまみれで押してゆく男もいる。都の庶民たちには珍しくもなくなっている光景だが、もし行きずりに、
「その石は何にするのかね?」
人々が声をかけたら、車を押していた男は、一瞬手を休め、汚れた袖で鼻先をこすりあげながら、無愛想に言ったに違いない。
「池だ」
「池? どうするんだい」
「掘っているのよ、どでかい奴をな」
大きな黒い石は、この岸辺に、半ばを土の中に埋め込んで敷き並べるのだそうだ。堅固に岸を固め、深々と水を湛える。そこに橋を架け、池の中に建てられた小亭に渡れるようにする。玉石はみぎわや邸宅の軒下に敷きつめるのだそうだ。
「軒端の石はな、雨受けよ。雨にれりゃ黒光りするってえわけよ」
「ふうむ」
「まず、みごとな大池だ。ひょっとすると、内裏うちにもあんな見事な池はなかろうて」
そうかも知れぬ、と人々はうなずき合う。
「じゃあ、宮居みやいも同じってことか」
期せずして、人の輪の中から嘆声が発せられた。
「ああ、東宮とうぐうさまも、ここがお気に入りでな、こちらにおいでの方が多いくらいだそうだよ」
平城京の東の宮、そして、そこの住むおびとこそ東宮・・・・・人々はいつかそのことを怪しまないようになっていた。
巧妙な重ね合わせである。文武の二人のひん石川刀子いしかわのとじのいらつめ紀竈門きのかまどのいらつめが廃せられて刀子娘の産んだ広成ひろなり広世ひろよが皇族の身分を失った今、文武の血を享けた皇子は、たしかにこの首しかいない。
が、彼はまだ正式に皇太子として承認されたわけではないし、まして皇太子の付属機関である春宮しゅんぐう(“とうぐう”とも読む)ぼうの設置、職員の任命などは行われていない。ただ律令の規定では皇太子に付属する機関の職務規定の条項を、「東宮職員令とうぐうしきいんりょう」と呼んでいる。この東宮と春宮の混用は、規範とした中国の諸令の中に、この双方の名称が登場することに由来するのだが、首を擁した不比等は、この混用を利用したともいえる。さらに、尊貴な人につて語る場合、その名を口にすることを避け、住む所か名前の代わりに使われることを思えば、首と東宮は、しぜん、分ち難く結びついてゆく。
氷高は、
── わなだったのだわ。
改めて不比等の遷都計画の狡猾こうかつさに胸を凍りつかせる。
藤原の京をのろいの地だと言いたてて人々を動揺させ、その過程で巧みに主導権を握り、平城京への移転を強行してしまったのだ。そして、その「功績」をひりかざして、宮城に最も近い所を邸宅の地として選び取った。それも偶然のように宮の東側を選んだのは、深い魂胆があってのことだったのである。
「東宮が」
「東宮が」
不比等も平然として、そう口にするし、周囲もそれを当然のことと思いはじめている。
── いいえ、そうではないわ。
氷高がいくら声高く叫んでも、その声に気づく者はいないだろう。いや、気づいたとしても・・・・。それが当の不比等であったとしても・・・・。彼は、むしろ慇懃いんぎんにこう言うだろう。
「と申しましても、ほかに東宮とお呼びできる方がおありでしょうか」
── いない、誰もいない・・・・
その時、彼の頬に湛えられる薄いわらいまで、氷高には想像できるのだ。不比等は近来いよいよ眉が薄くなり、背中がまるくなってきた。柔和にさえ見えるその顔には、確実に勝利を手にしつつある者の傲岸ごうかんさはどこにもない。
── そこがあの男の恐ろしい所なのだわ。
氷高はやさしげな仮面の蔭の不比等の呟きが聞こえるよな気がする。
壬申じんしんのあのいくさ、よもやお忘れではありますまいな。わつぃたちは負けました。が、今の有様をごらんください。私はここにこううしております。そして皇位を継ぐのは、まさしく私の孫です」
かつて近江朝で、天智の皇子大友に、藤原鎌足は娘の耳面媛みみもひめを入れた。大友の即位と、耳面系の皇子の誕生を願っての工作である。が、鎌足は死に、その後に起こった壬申の戦で、その夢は崩れ去った。そして今、不比等は父鎌足の野望を実現させようとしている。
「いや、長い道のりでございました。が、政治というものは、常にそのようなものかも知れませぬな」
掌理を誇る風でもなく、多分彼はそう言うに違いない。じっくりと既成事実を積みあげて行く手堅さ。新都建設のムードに便乗しての邸造りと見せかけて、彼は首の背後に坐る自分の地位を不動のものにしようとしている。そこには遊びや気まぐれは何一つない。無駄弾丸だまは射ったためしのない不比等なのだ。
それにしても、石川刀子娘の産んだ広成と広世が皇族の身分を奪われたことは痛手だった、あの時何か防ぎようがなかったのか。
そう思った時、頭に浮かぶのは長屋王のことだった。
── あの方が、私たちの立場に立って反対していたら?
とのかく結論を持ちこすくらいのことは出来たのではないか。が、長屋は不比等の娘の長娥子ながこに心奪われ、一言の反論も挟まず、この案に賛成してしまった。
氷高には長屋の思い描く未来図がわかるような気がする。首が皇位についたとしても、精神に異常を来している生母宮子は表面に出る事は出来ないだろう。とすれば母代わりをつとめるのは長娥子だし、その時、長屋は政治の中枢に坐ることになる。不比等としても、天武の孫に当たる彼を抱え込むことによって、首の正統性を強く主張することが出来る。そして、年少の首に皇子が生まれるのがずっと先だとすると、長屋と長娥子の間に生まれた子に即位の機会が巡って来ないでもないのである。
そのせいだろうか、長屋は吉備の住む佐保さほの邸へ帰ることが稀になっているらしい。その子供たち、膳夫かしわで葛木かずらぎ鉤取かぎとりたちの面影を思い浮かべると、氷高の胸は痛んだ。
今は自分たちを守ってくれる壁はすべて取り払われてしまったような気がする。母の元明も、平城遷都以来、めっきり髪の白さが増した。不比等を相手の戦いに度々敗れてからは目に見えて気力も失われてしまったようだ。
── 昔のお母さまだったら、大成と広世のことは、何としてもかばいぬかれたはずなのに・・・・
不比等から押し切られる形で、みすみす大成、広世たちを皇位の圏外にいやってしまったのは、母の衰えをしめすものかも知れなかった。
2019/09/25
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