~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
げん かん (三)
その安麻呂が世を去った時、元明が、正三位の彼に従二位を追贈したのも、単に礼儀的な意味でなかったことを氷高は知っている。安麻呂の後は息子の旅人たびとが継いでいるが、従四位上の武官である彼は台閣たいかくに列すべくもない。
その旅人が中務卿なかつかさきょう に任じられたのが五月、六月には天武の第四子なが親王が、七月には同じく第五子の知太政官事ちだじょうかんじ穂積ほづみ親王が続いて世を去った。
明らかに時代は動きつつあった。
氷高は母がひとり思いにふける時間が多くなっていることを感じている。ある時は半刻はんとき、ある時は一刻、そしてある時は夜もすがら・・・・。寝所しんじょの灯が洩れ続けていることによって僅かにそれが知られるだけで、元明は、氷高をさえ、その中に招じ入れよとはしなかった、
やがて秋になった。
夕映えが薄気味悪いほど赤く燃えた後は急激な冷え込みがやって来る。氷高の殿舎を、元明が微行しのびで訪れるという予告のあったのは、そんな夜であった。
「久しぶりで、そなたの弾く阮咸げんかんを聴きたい」
という口上が伝えられた時、
「まあ、聴いて下さるのですか」
重苦しい気分から解き放たれてゆくのを氷高は感じた。母にもやっと気持ちのゆとりができたのだろうか。自ら気軽に出向いてこうとという気になってくれたことが嬉しかった。
「帝はおくつろぎになりたいのだから」
侍女たちにはそう言い、あたりから遠ざけた。阮咸は琵琶びわに似ているが、胴が円形で、月琴げつきんの一種である。玳瑁たいまい螺鈿らでんめ込んだ中国渡りの紫檀したんのそれを献上する者があって、手すさびに習い始めたのは近頃のことだ。
「少しは上手になりましたか」
従えて来た侍女たちを退さがらせると、元明は、母らしいやさしい微笑を浮かべ、椅子いしに身を埋めるようにして、しばらく、氷高の弾く阮咸の音に耳を傾けた、ややあってから、
「いい音ですね」
小さく呟き、
「弾きながら、聞いて下さい」
それから静かに言った。
「やっといい時期が来たようです」
「何のことですの」
「位を降りる時期が来たのです」
「え、何ですって」
「阮咸を弾くのをやめないで」
深い眼差しが氷高をみつめている。
「私は疲れています。これ以上続けていれば気も弱くなるでしょう」
── いつかこんな日が来るのでは・・・・
ひそかに恐れていたことではあったが、こういう形で告げられるとは思いもしなかった。疲れ果てた母に翻心を促すことは出来ない、と氷高は思った。それに、すでに首は元服を済ませている。
「では、やはり、首に・・・」
言いかけて、氷高は眼を疑った。母はゆっくりと首を横に振っている。これはいったいどういうことなのか。問いかえすより先に、母の唇がゆっくり動いた。

「位を継ぐのは、そなたです」
「え? この私が・・・・」
危うくばちを取り落としそうになった時、母は声を強くした。
「弾くのです。弾き続けるのです。人に声を聞かれてはなりませぬ」
阮咸の音はおぼつかなく続く。
「この私が? この私が?」
「そうです。機を狙っていました」
「・・・・」
考えぬいた末のことです」
母の顔から疲労の翳は消えていた。強い決意を秘めた眼差しを向けて静かに続けた。
「早急に事を運ぶつもりです。打ち合わせに、まもなく長屋もここへ来るでしょう」
「あ、お母さま、それは・・・」
もう氷高は阮咸を弾いてはいなかった。
「それはいけません、あの方は」
言い終わらないうちに、沓音くつおとは戸の外に響いていた。
2019/09/26
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