~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
とう きょく (一)
晩秋九月──。
ひめみこの即位の日、空は季節に似ず、やさしく霞んでいた。しやをかけたような淡い蒼色のひろがりの中に、白雲が三つ四つ ──。見れば、ほのかなすみれ色のかげ
人々は、ふと、氷高の瞳の色を思いうかべたことだろう。そして、氷高 ── いや、すでに帝と呼ぶべき美しい女性の、新しい門出にふさわしいおだやかさに、うなずきかわしたことだろう。
即位の儀式を終えて、いま、彼女は大極殿だいごくでん高御座たかみくらを静かに降りて行く。新帝元正げんしょうの誕生である。天皇としてはじめていただいた礼冠らいかんの金銀の花飾はなかざり碧玉へきぎょくが、歩みにつれてかすかに揺れる。
さしばをかざす女官たちも思わず息を呑む。
── 何というお美しさか。
── 今までで一番お若い女帝でいらっしゃるもの。
── やさすさに中に神々しさまでそなえられて・・・・。
ときに三十六歳、これまでに例のない未婚の上帝の即位である。最初の女帝、推古が三十九歳だったのを除けば、歴代の女帝はすべて四十代、それも妻であり、母であった。元正の即位は異例中の異例と言わねばならない。
おだやかなその日の陽ざしとはうらはらに、前途が自分にとってきびしいものであることは、元正自身も知り抜いている。それはすでに即位の内定した時に見せた不比等の微笑からも感じられたことだ。
「心からおよろこび申し上げます。この日の来ることをお待ち申し上げておりました」
薄い眉の下の下がり眼に、やわらかな笑みを湛えて、彼はそう言ったのだった。
── なんという空々しさ。
元明の退位と、おびと の即位を誰よりも待ち望んでいたのは彼ではなかったか。首の周囲をこれ見よがしにきらきらしく飾りたて、文武の血を引く、広成ひろなり広世ひろよ
それが心からの服従、野望の撤回でないことは明らかだ。さすがに妻の三千代は不比等ほど巧妙におのが心を隠すことが出来なかったのか、元正の即位が内定してからしばらくは、病と称して出仕もしていない。
が、元正のだしぬけの即位に対して、それ以上に、官人たちの動揺がなかったのは、不比等の強引ともいえる画策に人々は必ずしも好意的ではなかったかららしい。してみれば、元明の情勢判断は誤っていなったということになる。
ともあれ、元正の初政は、おだやかな滑り出しを見せた。折しも瑞兆ずいちょうを持つ亀が献上され、年号も霊亀れいきと改められた。即位に伴うしきたりではあったが大規模の恩赦も行われた。元正はさらに農業の振興と、諸国から貢納物を都に運ぶ脚夫きゃくふたちへの救恤きゅうじゅつを指示した。
彼女の身辺に侍して何くれと助言し、献策するのは、もちろん長屋である。彼はそのころ、従三位から正三位に進んでいる。式部卿にとどまっている彼を、元正は、閣僚級の地位に引き上げたかったが、
「今は時期ではないようです」
長屋は微笑しながら固辞した。
「不比等は屈辱にまみれながらも、帝の前にひざまずいています」
人事について、これ以上こちら側が攻勢に出る事は避けるべきだ、という意見だった。その時も彼は、不比等について付け加えるのを忘れなかった。
「あの恭順ぶり、敵ながらあっぱれとはお思いになりませんか」
元正も微笑を返す。
「政治とは、おのれの心を隠すことでもあるのですね」
「早くもそこにお気づきになられたとは、帝もお見事です」
「先帝のお姿をずっと見続けて来ましたから」
敗北に追い込まれながらも、にこやかに人々に対し、弱味を見せなかった母、不比等と母の相剋のきびしさが、いま改めて思い返される。
「私には先帝のようには出来ないかもしれません。でも ──」
元正は眼をあげて、まともに長屋を見た。
「言うべきことは、はっきり言う事も必要ではないかと思います」
「そのとおりです」
「式部卿の昇進は時期を見ることにしましょう。が、そのほかにも、やっておきたいことがあるのです」
もの静かな美しい皇女から、早くも意志力を持った女帝へと変わろうとしている眼の前の女性に、長屋はふともの問いたげな眼差しを向けた。
── ひめみこ氷高よ。ああ、こう呼ぶのを許してください。あなたは今変わろうとしている。そこまであなたを突き動かしているものは何なのか・・・・
もし、言葉に出して長屋にそうたずねられたら、多分、彼女は答にとまどったことだろう。自分でもわからない。が、何かわからないものが、ぐんぐん胸の中にはぐくまれていることはたしかなのだ。
もとより優雅な物腰、おだやかな声音こわねは何ひとつ変わってはいない。が、一年も経たないうちに、いつか彼女が明確な自分自身の路線を打ち出していることに、人々は気づかされたはずである。
一つは壬申じんしんいきさに参加した人々の息子たちへの優遇策だ。すでに戦乱の経験者はほとんど世を去っていたが、元正はその息子たちに、改めて田地を下賜している。
何気ない即位直後の善政の一つと見せて、彼女は、あの戦の意義を確認し、今後の路線を天下に印象付けたのである。
2019/09/27
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