~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
とう きょく (二)
続いて懸案になっている藤原故京からの寺院の移転にも着手した。
「それはもう前々より心がけているのでございますが、何しろ・・・」
財政上の理由や人手の不足を言いたてて、なおも渋る不比等に、
官衙かんがの整備もたしかに必要です。でも私たちは、魂のよりどころもなおざりにしてはいけないと思うのです」
粘り強く、おだやかに、しかし、一歩も退かぬ気構えだけはのぞかせて、元正は不比等に迫った。
「ではこの際、みつぎを増額して費用を捻出ねんしゅつしてもよろしいというお考えでございますな」
皮肉を込めた反撃には、ものやわらかに応酬する。
「そのようなことを望む私ではないことは知っているはず。百姓たちが豊かになることをまず願っているのですから」
たしかに即位の直後の詔で、元正はそのことに触れている。水田耕作に不向きな所は畑作の粟の栽培を奨励する、という具体的方策まで示し、基本的貢租こうそである稲を粟に切りかえることをも許しているのだ。脚夫への救恤策を提示しているのもその一つである。
女帝らしい思いやり以上の周到な布石がそこにはあったのだ。その上で、増税よりも財政の運営によって懸案の解決を要求したのである。
けいの手腕に期待します」
静かな微笑の中に、しなやかな細身の剣に似たつよさの隠されていることを不比等は感じたに違いない。
── それほど力量のないそなたではないはずでしょう、不比等よ。
元正の瞳は明らかにそう言っていた。
廟議びょうぎの末、寺院の移転が開始された。が、そこでも元正は、ひた押しに押すだけでない柔軟な対応ぶりを見せた。焼失した大官だいかん大寺だいじは新しく左京六条四坊へ。その名も大安寺だいあんじと改めることを許した。同じく飛鳥の法興寺ほうこうじ、つまり飛鳥寺も寺籍のみを移し、名称も元興寺がんこうじに──。飛鳥の記憶、藤原京の記憶を少しでも薄めようとする不比等の意向はさりげなく受け入れ、
「その代わり、薬師寺だけは、御仏みほとけも、御堂も・・・・」
かつての言明どおり藤原京からの移転を望んで譲らなかった。
「しかし、帝」
不比等もうやうやしげに答える。
「この都で、すべての寺院は新しく建立こんりゅうされるわけではございます。その中でただ一つ、薬師寺のみ、古材をもって造り、古き御仏を安置奉るのはいかがでございましょう」
見劣りするばかりだ、と言いたげな口吻こうふんを、元正はさらりとかわした。
「いえ、それでよろしいのです。あの御寺には、天武の帝、持統の帝以来の思い出が秘められているのですから。私はあの御仏の前にぬかずきたいのです。それに ──」
元正の口調はいよいよ静かになる。
「都遷りが議せられた時、卿は、あの御仏を、どこまでもお運びする、と先の帝に言上したそうですね」
さすがに不比等は顔色を変えなかったが、廟議に列した諸臣は、あの日の光景を思い出したのではなかったか。
── あの日、不比等はいやにもの静かにそのことを言ったものだ。が、今、女帝は彼よりももっと静かに、それを仰せられた。
2019/09/27
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