~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
とう きょく (三)
こうして薬師寺の移転は遂に実現の運びとなった。寺地は右京六条二坊。藤原京における位置とほぼ似かよう場所に、伽藍の規模を厳格に踏襲して造られることになった。
まず慎重な解体作業が行われ、瓦や木材が徐々に平城京に運び込まれたが、こうした大規模な寺の逝移建には、長い年月が費やされるのが常だった。ただ礎石だけは都の近くのものに替えて運搬の労を省いたが、その形式は厳重に藤原京のものにならうことにした。
不比等は時折、例の微笑を湛えて元正に言う。
「御仏の御動座どうざには、ひときわ心を用いることにいたします」
「ほんとうに御尊像に傷もつけずにお運びすることが出来ますか」
元正の問に、うやうやしく答える。
「できます。私がやって御覧にいれます」
安定期に入った平城京の、優雅な伽藍造り ── 都ひとの眼にはそう見えたかもしれないが、そこには元正と不比等の、静かな、しかしすさまじい相克のくり返しがあった。
藤原京での薬師寺の解体がはかどってみると、思いがけないことも発見された。金堂の巨像を支えていた仏壇が、その重みに耐えかねて、かなりの痛みや歪みを生じていたのである。
「仏壇はやはり新たにした方がよろしいかと存じます。大理石を敷きつめ、御尊像を安置し奉りましょう」
という不比等の提案には元正も異存がなかった。金色色に輝く巨像は、白く冷たい大理石の仏壇の上に据えられたとき、より豪奢に威厳に満ちたものになるであろう。
三尊の移転には七日かかった。元明女帝たちが長屋原ながやのはらで一泊した行程を、絹や綿に包まれた巨像は、七日もかかって慎重に運ばれ、無事平城京入りしたのであった。
一応三尊が安置された段階で、元正は、不比等の案内を受けて、妹の吉備とともに伽藍を訪れた。
「いかがでございますか。藤原の都と、寸分違わないつもりでございますが」
念を押すように不比等は言った。
「大理石の御仏壇は、御仏にふさわしゅうございますな・・・」
功を誇るというふうではないが、やはり不比等はそれを強調したかったようだ。
まさに薬師三尊は、藤原故京にあると同じ輝きを見せ、あたかも百年も前からここに在ったかのような静かな眼差しで、元正たちを見下ろしている。いくら眼を凝らしても、その肌にはかすり傷ひとつ見出せなかった。
が、しばらく三尊をみつめていた吉備が、おや、というふうな小さな呟きを洩らした。
「どうかなさいましたか」
慇懃いんぎんにたずねる不比等を顧みながら、吉備は、しなやかな白い指を台座に向けた。
「台座を切ったのですか。上の方の模様が少し短くなっています」
たしかに上下のかまちに挟まれた鏡板の部分、例の醜い鬼神を鋳出ところの上部が少し切り詰められた感じなのだ。
「ほほう、よくお気づきになられましたな」
不比等はまばたきをしながら吉備に向かって微笑した。
「それはすぐわかりますわ。四方のすみの模様が、上の一つだけ、ちょっと切れていますもの。私、あの模様がちゃんと五つあることを覚えているんです」
微笑をはねかえすように、ぴしりと吉備は言った。
「これは恐れ入りました」
言葉だけはうやうやしげに不比等は言う。
「大理石の仏壇が多少高うございまして、そのままでございますと、御尊像の光背こうはいが天井につかえるような感じになりますので、台座で工作いたしました。金堂を建てかえるならともかく、そのまま使えという思し召しを生かすためにはそうするよりほかございませんでした」
元正は何も口を挟まず、吉備も強い視線を不比等に投げたまま、しばらく無言だった。その日内廷までついて来た吉備は、はき捨てるように言ったものである。
「そういう男なのよ、不比等は、眼を離したら何をするかわからない」
元正はむしろなだめる口調になっていた。
「でも薬師寺はとにかく還したわ。不比等に還させただけでも、私たちは一つの事実を作り出したことになるわ。そうは思わない?」
が、本尊の移動で薬師寺の建立が終わったわけではない。むしろ工事はこれからである。壁を塗り、木部に彩色を加える。付属の僧坊を造る。それらのために新たに造薬師寺司ぞうやくしじし史生ししょう二人が任命された。西塔の移建が行われるのはもっと先のことであり、東塔にいたっては、解体作業も始まっていない。
元正はしかし事をいそぎはしなかった。十年、いや十数年かかってもいい。ともかく三尊の移転によって、藤原故京は平城京に重ね合わされたのだ。黄金に輝く薬師三尊を仰ぐとき、ふと、彼女は、祖母持統の体の不調が目立ち始めた頃に、母とともにこの像の前にぬかずいたことを思い出していた。
2019/09/28
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