~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
とう きょく (四)
薬師寺の造営が、ゆるやかな足取りで進められている間にも。時代は大きく動いていた。大安寺建立がはじめられた翌年、老いたる左大臣石上いしのかみの麻呂まろが世を去った。すでにその直前、中納言巨勢麻呂こせのまろも死んでいる。廟堂に残るのは、右大臣不比等と中納言粟田真人あわたのまひと阿部宿奈麻呂あべのすくなまろのみ。大納言の座は久しく空席になっている。
不比等はすぐさま左大臣に任じられることを期待したようだが、元正はそのことに全く触れようとしなかった。
「われら三名のみにては、国務が多すぎて手が廻りかねます」
粟田真人も阿部宿奈麻呂も口を揃えてこう言ったが、しかし、元正は、
「もう少し時期を見て・・・太上帝おおきみかど(元明)の御意向も承ってみましょう」
用心深くこの問題を避けた。長屋の名を口にしようともしなかったのは、それと引き替えに不比等に左大臣の座を許すことになるのを警戒したからである。
長屋を一日も早く廟議の座に ── と考えた即位直後とは何という違いであろう。今も彼女は、長屋はもちろん、母である太上天皇元明にもさまざまの助言を得てはいる。いわば太上天皇との両者の共同統治という形が自然だったそのころとして、これは当然のことであったが、その母すらも、
「もうそなたのすることに口を挟む必要はないようですね」
と言うまでになっている。元正の王者としての感覚は、みるみる研ぎ澄まされていったのだ。
長屋のような頼もしい協力者は欲しかったが、しかし、彼女の政治の初期段階を、独りで切り抜けて来た。その自信が、事を性急に運ぶよりも、目的を達するために最もよい時期を選び取ろうとする沈着さを生んだともいえるだろう。
大安寺の建立が開始されて間もなく、不比等は、元正に美濃への巡幸を要請した。
多度山たどやまふもとにふしぎな霊泉がございます。御世はじめの御巡行に、ぜひとも・・・」
そこでゆあみすれば、たちまち肌がなめらかになり、傷も癒えるのだという。
「それは珍しいこと、ぜひ行くことにしましょう」
にこやかに元正は応じたが、しかし実際に最初の巡視の血として選んだのは難波なにわであった。
幸徳こうとく朝の皇居の地であると同時に、そこは皇極こうぎょく女帝ゆかりの地である。乙巳いつしの変で蘇我入鹿がたおれた時、皇位にあった女帝は同母弟の幸徳に位を譲った。が、その後も、難波宮にともに在って、皇祖母すめみおやのみことと敬われ、隠然たる勢力を保ち続け、幸徳病死の後をうけて再祚さいそする。これが斉明さいめい女帝である。
斉明時代の皇居は飛鳥だったが、晩年、半島出兵のために筑紫つくしに向けて旅立つ時も、軍備編成の基地として難波が利用され、彼女自身もしばらくここにとどまっている。
が、筑紫で斉明を待ち受けていたのは死であった。そしてその後に訪れるのは、半島に出兵した日本軍の大敗である。以後の国内の大変動が壬申の戦に連なる事を思えば、まさしく、難波は以後の日本の歴史の起点ともいえる。そして斉明女帝こそ、推古の血を引き、それを後の持統・元明に伝えた存在なのだ。
難波訪問は、それらの歴史への回顧である。そこで元正はいまのこの国のあり方をもう一度問い直したかったのだ。
白村江はくすきのえの敗戦以来、日本の外交路線はときに唐寄り、ときに新羅寄りにと揺れ動きながら、それが国内の政治にも大きな影響を及ぼして来た。文武初年唐との国交が回復し、遣唐使の派遣と共に律令はじめ唐風の諸制度・文化が、潮のように押し寄せて現在に到っている。
が、この路線変更が、国内での権力争いに結びついている以上、警戒をゆるめることは出来ない。唐寄りの路線の先頭に立つのはもちろん不比等だ。げんにこの時期、すでに遣唐使の派遣が決定され、使者たちは船出の時期を待っている。
この親唐路線は彼にとっては父鎌足と天智との時代の復活であり、天武・持統への批判の意味を含んでいる。そのことは元正には痛いほどよくわかる。とすれば力の均衡上、新羅との外交にも力を入れざるを得ない。じじつ、彼女の手によって、遣新羅使の人選もひそかに進められていた。まさに難波への旅は、それらの事態をふまえてのものに他ならなかったのだ。
元正の難波行きに不比等はあえて異を唱えはしなかった。
「それでは、難波の後に美濃へ・・・」
が、石上麻呂の死などがあって、美濃行きの実現はその年の秋まで延期された。
2019/09/28
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