~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
はく こう (一)
美濃巡行を終えて都に戻った直後、元正は大規模な人事異動を発表した。
空席だった大納言に、長屋と阿部あべの宿奈麻呂すくなまろを、中納言に多治比たじひの池守いけもり巨勢こせの祖父おおじ大伴おおとも旅人たびとを。
安倍宿奈麻呂は中納言からの昇進だから、まず当然としても、今まで廟議びょうぎに参加できなかった式部卿長屋王の異例の抜擢ばってきは人の眼を驚かせた。いや、大納言に任じられた長屋自身、叙任の式にあたって、
── ひめみこ、いや帝・・・・
一抹の逡巡しゅんじゅうを含んだ眼差しで元正を見つめざるを得なかったくらいである。
── よろしいのでございますな。
長屋の眼は、二人の間だけに通じる、言葉にならない問いかけをしていた。
── なにが、ですの?
元正もじっと長屋を見つめる。
── 大納言にしていただいたことでございます。
── 私はけいの力量を信じています。ためらうことはありません。
── いえ、そのことではございません。
── では?
── 右大臣でございます。右大臣不比等がどのように思うか。そのことが帝の御政治をやりにくくはしないか・・・
── ほ、ほ、そのようなこと。
静かな笑い声を聞いたと思ったのは長屋の空耳そらみみだったかも知れない。が、瞬間、やさしいすみれ色の翳をよぎらせながら、彼女が形のよい唇を、きゅっとひきしまたのはたしかである。そしてその瞳は明らかに言っていた。
── 私の決心はすでにきまっています。
蜻蛉かげろうはねより薄い領巾ひれさえもすべり落ちそうななよやかな肩、結い上げた黒髪さえも重たげなうなじ・・・・。この繊細な肉体の持主のどこにそんなつよさがひそんでいたのか。
とまどいに似た驚きの中で、やがて長屋は気づいたはずである。
── そうだ、今度の美濃への旅だ。
美濃から尾張、伊賀、伊勢と、壬申じんしんの戦にゆかりの地を巡視して、女帝は、あの戦いの折に献身的な働きを見せた人々の子孫に接し、力強い手ごたえを感じたのだ。そして、かつて鸕野讃良うのさらら皇女(のちの持統)の面影に重ね合わせて自分をみつめようとしている人々の視線を受け止めた時、彼女の心は決まったのではないだろうか。
── そういえば、前の年、女帝は近江で持統の帝を思い出しておられた・・・
長屋にとまどいに似たものを感じさせたように、この異動は、かなり思い切ったものだった。
大納言に手の届きそうになったところにいた上席の中納言粟田真人あわたのまひとは、結局昇進の機を逸した。彼は遣唐使が再開された折、不比等の意を受けて唐に使つかいした人物で、いわば不比等の片腕である。巨勢祖父は、前年死去した巨勢麻呂こせのまろの代わりだが、もう一人の信任中納言、大伴旅人は、元明太上天皇以来、最も女帝側に信頼の厚い人物である。
2019/09/29
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