~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
はく こう (二)
つまり、廟堂びょうどうはにわかに女帝側の色彩が強まったのだ。もちろん相手側への配慮もあって、もう一人の中納言には多治比池守が加わった。彼は巨勢氏と並ぶ名門の出で、その弟の県守あがたもりは、さきに遣唐押使おうしとして唐に旅立っている。粟田真人とよく似たような立場の人物で藤原氏には近いが、彼を登用したのはわけがあった。これによって、彼より先に中納言に足をかけようとしていた不比等の次男房前ふささき ── すでに前年「朝政に参議する」というかたちで廟議に列するようになっていた彼の昇進は見送られてしまったのである。
もちろん不比等自身も右大臣のままで、左大臣にはなっていない。元正側の長屋や旅人は躍進したのに、不比等側は三人揃って足踏を余儀なくされている。
この新人事を追いかけるようにして、元正は、かねてから考えていた新羅への使いの発遣はつけんを決定した。不比等は、
「唐のような大国と違い、新羅からはあまり得るところはないかと存じますが」
と消極的だったが、元正はこれににこやかに応じた。
「とのかく私はどちらとも親しくしてゆきたいのです。唐との交わりも大切ですが、新羅はより我が国に近く、昔から行き来していたことですし」
反駁はんばくの隙のない、しなやかな言葉に、不比等もそれ以上のごり押しは出来なかった。この時遣新羅大使に任じられたのは小野馬養うまかい。以後、新羅との往来はしばしば行われた。
一方、さきに唐に渡った多治比県守たちはその年の暮れに帰京した。帰国の挨拶にやって来た一行の中には不比等の三男宇合うまかいの顔もあった。彼は遣唐副使として県守とともに渡唐していたのである。元正は彼らの前でも微笑をたやさなかった。
「長い旅、まことに御苦労でした。今後の帰国の旅は一船も損傷せず、みな無事だったとか。これ以上の喜びはありません」
県守らとともに渡唐した吉備きびの真備まきび阿倍あべの仲麻呂なかまろらは、留学生として彼の地に留まっている。
帰国した使たちは、口々に大唐の繁栄ぶりを語った。元正はその一つ一つに興味を示したが、今後の遣唐使の派遣計画には一言も触れなかった。じじつ、これ以後、彼女の治世下には一度も遣唐使派遣は行われていない。
さりげない外交路線の変更である。表立って声を荒らげ、これまでの方針を非難するのではないが、彼女は内政に外交に、自分の定めた道を着実に歩み出していた。
老練な不比等は、さすがにこのことに気づいたらしい。
── む、む。帝は持統の帝のなされように倣おうとしておられるのだな。
このおだやかな美女がか・・・首を掴んでひとひねりすれば、息の根をとめるのもわkないような存在が、自身のわきの下をすりぬけ、したたかに自らの道を歩もうとしていることに、彼はひそかにうなった。
いや、彼より一足先にそのことに気づき、
「父上、油断はなりませぬぞ」
乾いた声でささやいたのは、長男の武智麻呂むちまろだった。長屋王の後任として式部卿に任じられている彼は、兄弟中最も学識ゆたかで思慮も深い。いまや弟の房前と並んで権力の座をめざす一人である。
「わかっておる。わかってはおるが・・・」
よくしなう細竹を折りかねているような困惑が不比等の顔にあることに武智麻呂は気づき、
── 老いられたな、父上も。
ふと、そんな思いを抱いたかも知れない。それだけに、武智麻呂はいよいよ精悍せいかんに、その頬をひきしめたのではなかったか・・・・。
2019/09/29
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