~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
はく こう (三)
人々が、武智麻呂の姿に息を呑んだのは、翌年正月二日、大極殿だいごくでんにおいてであった。元正が、この宮中の正殿せいでんで諸臣の拝賀をうけたとき。武智麻呂は、新帰朝の多治県守とともに、皇太子おびとを左右から支えでもするかのように傍らに近侍し続けたのである。
── まるで抜身ぬきみ白刃しらはのような・・・・
武智麻呂の気迫を感じながら、元正はその視線をあえて無視した。
── 見るがいい、この俺を、この眼を。
あきらかに彼はそう言っていた。
── 見るがいい、俺のまもっているこの皇太子を・・・・
すでに首は十九歳、青年に達した彼の背丈は、武智麻呂や県守を超えている。武智麻呂たちは、首について、
年歯ネンシ幼稚ニシテ未ダ深宮シンキュウヲ離レズ」
と語った元明の詔勅が意義を失ったことを示したかったのだ。」
── 皇太子はもう立派な一人前の男だ。皇位を受け継ぐ資格は十分だ。
いや、彼らが言う迄もなく、元正はこの甥が一人前の男になっていることを知っている。
彼はその二年前、あがたの犬養広刀自いにがいのひろとじという娘をみごもらせ、女の子を産ませているのだ。広刀自は、首にかしずく県犬養三千代と同族で、あどけない顔立ちの美少女であった。三千代はすでに橘の姓を得て、県犬養橘三千代と名乗ってはいるが、同族である事には変わりはない。
そして、つい数か月前、彼は二人めの女児の父になった。
その女児の母は、安宿媛あすかひめ ──。
まさしく不比等と三千代の間に生まれた、首と同年の女性なのであった。不比等が首を狂疾きょうしつのある生母宮子と引き離し、三千代とともにその身を護り続けた目的はほぼ達せられたと言ってもいい。安宿媛は生母三千代の膝にまつわりつき、首とともに育てられた。そして年頃のきた二人が。自然結ばれることになったとしても不思議はないのである。
むしろ、不比等は、県犬養広刀自が、安宿媛より先に身ごもったことに驚き、苛立ったともいう。思えば、元正が女帝としての道を確立させようとしていたとき、不比等と三千代、首と広刀自、そして安宿媛の間に、時間は、もう一つの流れ方をしていたのであった。
そして、養老三年の正月、二つの流れは、大極殿」の中で交錯した。
いま、靜に元正は首に視線を向けている。
が、抜身の白刃の護られながら、十九歳のその青年はひどく弱々しい。むしろ元正の瞳におびえるかのように顔を伏せている。抜身をひきつけてあたりを睥睨へいげいする若き王者の風格には程遠く、抜身にひきずられ、辛うじてそれに支え5られて立っている、といった様子なのである。
元正は微笑を含んだ視線を逸らせた。
そのまま無視してしまうことも可能だった。
── この弱々しい若者に何が出来るのか。
こんな者にかかわる必要はない、と思った。しかし、そう思いながら、かすかに元正の胸に中に波立つ何かがあった
彼女と眼を合わせ、慌てて顔を伏せた首の表情が、驚くばかり彼の父、文武に似ていたからだ。
── まあ、何と、恐ろしいまでに・・・
似ているというより、弟そのままだ。急に自分の年齢がひき戻されて、ひよわな青年だった弟の傍に引き寄せられてゆくようだった。
弟は、藤原宮子を身ごもらせ、後嗣問題で悩み、命をすり減らして死んでいった。そしてその宿業しゅくごうを負った子が、いままた同じ瞳の色をしてうなだれているる。あたかも弟の悩みだけが生き続け、そのまま次の生命に引き継がれたかのように・・・・。
── この子はわが生いたちと、父の宿命とのからみあいを知っている。
いつどこで、彼はそれを知ったのか。母から引き離され、不比等と三千代だけに護られ、世の中から隔離されて育った彼は、王者の子として、傲岸ごうがんな、そして不遜ふそんな魂の持ち主となることも可能だったのに、何が、彼に父の苦悩を覚らせたのか? もし誰が教えるともなくそれを知ったとしたら、彼もまた父譲りの敏感な魂の持ち主といわねばならない。元正は、自分と眼を合わせて、おびえたようにうつむいた瞬間、青年のかすかな問いかけを感じたような気がした。
── 私は・・・私はいったい、皇太子たるべき人間なのでしょうか。
── 伯母上、私はさらに、藤原氏の娘を身ごもらせてしまったのです・・・
魂の屈折は彼の中でいよいよ深くなっている。
元正はそれに対して、こう言い切る事も出来るはずだった。
── そう、そなたは、皇位につく資格などありはしない。なぜなら、そなtsの母は、蘇我倉山田石川麻呂の血を一滴も受け継いでいないのだもの。
── お悩み。永久に悩んでおいで。宿命の子よ。
が、どこかで彼女の胸は波立つ。それは彼があまりにも父親と生き写しだからか・・・。彼女のかすかな混乱とためらいにも気づかぬように、朝賀の儀式は進行していった。
唐に使いした人々が、改めて元正に拝謁はいえつしたのは、その後間もなくのことである。彼の地で皇帝から与えられた唐制による朝服ちょうふくを着けて整列した彼らの顔は、先進文化をこの肌で感じ取って来た、という優越感に輝いていた。誇らしげに語る彼らの報告に耳を傾け、時折微笑を浮かべてうなずきはしたものの、そのとき、元正の考えていたのは、おおそ別な事であった。
── 持統の帝の御志に沿って、新羅との交渉を深めた今、次にすることは、ただ一つ。
持統の意思を無視して、文武と不比等によって作り上げられた大宝令の改正である。差し当たって、彼らのもたらした新知識は何らかの役に立つであろう。彼の地では律令の改正はしばしば行われている。これに倣うと見せて、大宝令をねじまげてゆくことは出来ないものか・・・・。
その年の六月、皇太子首は、いよいよ政治の座に連なる事になった。
── もう子ども扱いなどはさせぬぞ。
不比等や息子たちの声に護られての廟堂への登場であった。が、その足取りは依然おぼつかなげで、いかにも、背後からせきたてられ、腰を押されて政治の場に引きずり出された、という感じだった。
たしかに・・・・。
この時期、藤原一族はなぜかしきりに事を急いでいた。前のめりになって突っ走るような性急さは、慎重な不比等の日頃からは考えられないことである。
不比等が片腕とたのんでいた中納言粟田真人が世を去ったからか。小野馬養の渡海にはじまって、、新羅との交渉がいよいよ頻繁になりはじめたからか。
いやそれだけではなさそうだった。何かわからないものが彼らをせきたて、走りださせた、としか言いようがない。そして、不比等自身すらも気付かなかったこの不可解なものが、その正体をあらわすのは、翌年になってからのことである。

2019/10/01

Next