~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
はく こう (四)
最初にそれは奇妙な天然現象として都人の眼を奪った。
南の空から北へかけて、一本の帯のような白い虹がかかったのだ。
「あ、白い虹が・・・」
「いや、虹ではあるまい」
「光の帯かなあ」
人々はまぶしげに空を仰いで言った。翌年正月十一日のことである。その年の元日、大宰府から美しい白鳩が献じられて、宮廷はその瑞兆ずいちょうに沸き、大がかりな祝宴が催されたばかりだった。これに続く、この不思議な光の帯の出現を、どう解釈したらいいのか。
こんな時不比等はほとんど無表情である。
「白い虹か・・・」
手をかざしてそう言い、元正の傍らにある皇太子首の方をちらりと見やった。瑞兆で始まったこの年、どういう形で首を皇位に送り込むか、彼の考えていることはそのことであったはずだ。逆の言い方をすれば、それはどういう形で元正を退位に追い込むかということでもある。
してみれば、この白い虹を、吉凶いずれの前兆として使うべきか。それはわが方寸ほうすんにあると思っていたのではなかったか。
ところが、二十日経たないうち、大納言阿部宿奈麻呂が急死した。さきに粟田真人を失い、廟堂のバランスは微妙に変化しはじめたのである。
加えて大隅おおすみ隼人はやとが反乱し、大隅守おおすみのかみが殺害されるという事件が起こった。瑞兆で幕を開けたはずの養老四年は、思いがけない方向に曲がりだした。
隼人の反乱の鎮定には、中納言大伴旅人おおとものたびと征隼人持節せいはやとじせつ大将軍だいしょうぐんとして向かうことになった。武名の高い大伴氏の任命は当然ともいえたが、不比等がこれを強く推進したのは、相対的に比重を増してきている女帝側の有力者を、中央から退けるためでもあった。
元正もそれに気づいている。が、あえてその献策を受け入れたのは、代わりに律令の改正に手をつけようとしたからである。
「遣唐使も帰ったことですし。その中でも、大倭やまとの小東人おあずまひとは、唐令にくわしく、今度もみっちり調べてきたと聞いています」
かねて目をつけていた少壮官僚の名を彼女は口にした。
並み居る法律の大家の中に新帰朝の少壮官僚を入れて改訂事業を推進させるという提案に、不比等は、真意をはかりかねたようである。
「律令を新しくなさろうという思召しで? しかし、大宝の律令が作られましてから、まだそれほど経っておりませんが」
頷きながら、元正は言う。
「ええ、でも飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうも、作られて間もなく変えられました」
不比等が、かすかに、むむ、と唸るのに気づかぬふりをして元正は続けた。
「もちろん、大宝令の根本精神はそのままです。ただ、足りない所を補うとか、字句を訂正するとか・・・」
「しかし、帝・・・」
不比等は恭しく一礼しながら彼女の言葉を遮った。
「そのような細かい事を変えましても、あまり意味がないと存じますが」
「そうかも知れません。でも新しい知識を学んで来た小東人たちの意見も聞きましょう。唐の人々が見ても恥ずかしくないものにする必要があります。いえ、その唐でも、しばしば律令の改訂は行われているということですから」
言いながら、ふと彼女は思い出していた。
── 昔、持統の帝と弟の文武の間にも、同じ様なやり取りがあったはずだわ。
母から聞かされたのだったろうか、記憶もさだかではない。が、持統は自らが公布した飛鳥浄御原令の変更をがえんぜず、文武は自分と同じようなことを言って説得を続けたという。その時の新律令の推進者こそ不比等であり、今度は自分が彼に律令の変更を迫っているのだ。
── そのことに、気づいていないそなたではないでしょうね、不比等よ。
さりげなく視線を送ろうとして、元正は一瞬わが眼を疑った。不比等に顔色がひどく悪いのだ。
大臣おとど、どうかしましたか」
「いや、なに・・・」
律令改正の提案が、さほど衝撃を与えたとは思えなかったが、それでも、
「この話は今すぐというわけではないのですよ」
と付け加えると、不比等は苦笑に似た頬の歪ませ方をした。
「御趣旨はよくわかりました。検討をいたしますが、いや、なに、このところちっと食欲がすすみませんので、疲れやすくなっておりまして・・・」
一礼して去る背中を丸めた後姿は、たしかにせが目立っている。

2019/10/01

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