~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
冬 の 挽 歌 (三)
「さ、私を起こして、髪をくしけずってください」
元明の言葉に色を失ったのは、むしろ侍女たちであった。
「そ、そてはおやめくださいませ」
口々に止めたが、元明はかなかった。
「右大臣に太上天皇として会うのです。このままの姿ではなりませぬ」
助けられて床を離れると、髪や衣服を整えさせながら、やや考えた末に、
「右大臣と共に、房前を」
と命じた。藤原房前は、現在「朝政に参議」するという形で廟議びょうぎに加わっている。地位はその年中納言になった兄の武智麻呂の方が上だが、朝政についての経験は彼の方が深い。二人が急いで駆けつける前に、元明は侍女たちに抱えられ、別室の椅子いしに座を占めた。
髪かたちを整え、端然と椅子に坐したその姿は一分いちぶの隙も無く、病床に横たわっている時よりもずっと大柄に見えた。
── あ、お母さま。
長屋たちに先立って母の許に駆けつけた元正は、思わず言葉を呑み込んだ。大らかに胸を張った昔ながらの母の姿がそこにあった。
緊張した面持ちで長屋と房前が姿を現すと、侍女たちを退さがらせ、かたちを改めて元明は言った。
「いよいよお別れの時が近づいて来ました」
「な、何と仰せられます」
思わず口走る長屋を制して、彼女はゆっくりとうなずく。
「慰めや励ましは不要です。ただ、今のうちに、そなたたちに言っておきたいことがあるので来てもらいました。いえ悲しむには及びません。すべてのものに生あるかぎり、死はやって来るのですから・・・」
りんとした口調に乱れはなかった。
「長い間、けいたちはよく仕えてくれました。私への奉仕はそれで充分です。死後の葬儀を手厚くすることのないように。厚葬こうそうは私の望むところではありません」
さらに細かく、葬送の地を指定し、火葬を命じ、諡号しごうも簡略に、と希望を述べた後、
元明の瞳が、じっと元正に注がれた。
「そなたも平日と同様万機ばんきべるように。以下の卿相けいしょう、文武百官もその職務を放擲ほうてきして、わがひつぎに従う事はあってはなりませぬ。ただ五衛府ごえふ及び近侍の官は警戒を怠りなく」
どこにこれだけの気力を残していたのか。
長屋や房前はもちろん、病床に近侍し続けた元正にも信じられないことが起こっているのだ。
元明は今、ひどく冷静に自分の死を見つめている。そして、天皇家にしきたりとして伝わった重々しい葬送の手続のすべてをしりぞけ、ただ一個の生命のなにげない帰結として扱うことを、淡々たる口調で命じている。
その後で、さらに彼女は言った。
「それにもう一つ、ぜひそなたたちに言っておきたいことがあるのです」
静かにうなずき、眼で彼らを差し招いた。
「もっと近く」
2019/10/03
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