~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
冬 の 挽 歌 (四)
それから三人の顔をゆっくり見渡して口を開いた。
「私はこれまで、太上天皇として、帝と並んで天下のまつりごと摂行せっこうしてきました。それは卿等けいら輔翼ほよくたまものです。いま世を去るにあたって、私は、天下の政を、帝とわが子の忘れ形見である皇太子の手に委ねたいと思います」
元正の耳は多分聞き逃さなかったはずである。
「わが子の・・・」
と言いかけた時、母の言葉が、かすかに揺れたのを・・・・。
── お母さまは、遂に、はっきりお許しになった、首の即位を。
首は、わが子文武の再来であり、元明にとっては、わが子そのものであった。
── あの日から、お母さまは、そのことを考え続けていらっしたのだわ・・・・。
しかし、今度も、遂に母は悩みを打ち明ける事はしなかった、と元正は思った。いや、打ち明けられないほど悩みは深かったのだ。しかし、首と向き合った時、あまりにも父親に似た彼を、母は遂に拒むことが出来なかった。
── 首ではない。わが子軽に ── わが血を伝えるわが子軽にふたたび位を授けるのだ。
そう思いながらも、首の中に藤原宮子の血が流れている厳然たる事実から眼を逸らせることは出来ない。母は死の淵に臨みながらも、なお、魂をひき裂かれ続けている。わが死を突放すようにみつめ、歴代天皇の葬送の伝統をあえて破ろうとしたのは、そのことと無縁ではないかも知れない。
気がつくと、房前は、床に身を投げ出している。
おそれ多いことでございます」
ひれ伏したまま、房前は切れ切れに言う。
「直ちに、東宮とうぐうに参りまして太上帝おおきみかど
藤原一族は、遂に待ち望んでいた元明からの首即位の全面的認証を取り付けたのだ。
「皇太子の即位の時期については、帝の御意向をよく承るよう」
声の乱れもみせず、元明は続ける。
「私と帝がそうであったように、皇太子即位の後は、太上天皇となられる今の帝が、ともに天下の政を行うように。これは右大臣ともども、」よく心得ておくように」
「は、それはもう、仰せを承るまでもなく」
長屋が引き取って答える。太上天皇と天皇、天皇と皇后、あるいは母后と皇太子 ── こうした共同統治は、古代日本では伝統的に行われている。その形に沿って、首が即位後も、太上天皇となる元正との共同統治が行われるべきことを、はっきりした形で念を押したのである。
「重ねて申します」
首を上げ、慄然りつぜんとして言った。
「私は、私の子に位を授けるのです」
私の子に ── と言った時、元明の瞳は元正に注がれていた。そして元正は、その言葉の中にたゆたうものを感じざるを得なかった。
── お母さまは、あの日のことを思い出していらっしゃるのだわ。軽と首を重ね合わせていらっしゃるのだわ。
魂をひき裂かれ、苦しみ続けて来た母が、生涯の終わりに経験した魂の幻覚に、身をゆだねたとしても、とがめることは出来ない。
母の声はまだ続いている。
「これは、私の命を賭けた願です」
さすがに息の乱れが感じられる。生命をふり絞って、なおも、母は言う。
「私はわが子に位を授けるのです。そして、後々も・・・たしかに。まちがいなく・・・天皇の位は、わが子に伝えられるものでなければなりませぬ。卿たちよ、そのことを、私が今日、ここで申したことを、帝と共に、長く胸に留めておくように」
「ははっ」
深く一礼し、やがて眼を上げた長屋を、元明はみつめて、なおも繰り返す。
「私の子に・・・位を」
すでに一語一語をほとばしらせるとき、その胸は苦しげに波打ちはじめている。
── お母さま、いえ太上帝・・・
言いかけて、元正は思わず声を吞んだ。
あっ!
衝撃をこらえるのがやっとだった。
わが母の言葉のしかけの見事さよ・・・・。
幻覚に酔ったかのように、母は首のことをわが子と言った。
が、その裏を返せば、そこには容易ならぬ意思表示がひそんでいる。母は、はっきり言っているのだ。
「皇位はわが一族に伝えられるべきものだ」
と、いま、母は首をその一族として認めた。が、現実には、彼は依然として母にとっては皇孫にすぎない。そして、同じ皇孫を求めるならば、元正の妹、吉備が長屋との間にもうけた男児も又皇孫に他ならないのだ。
しかも周到な母は、すでに彼らに皇孫の待遇を与えている。だから母はこう言っているのだ。
「いま、私は首を私の子として、皇位に着くことを認めました。しかし、ほかに、私の子には吉備がいます。そして、吉備の子供たちは、首がわが子という意味で、まさしく私の子なのです」
蘇我倉山田石川麻呂の血をけた女として、女帝として、彼女は最後まで見事な政治力を発揮したのである。そう言いながら、長屋に向けた眼差しを、当の長屋は理解したろうか。傍らにひれ伏す房前は、そのことに勘づいたであろうか。
2019/10/03
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